吉田茂
動画でたどる
敗戦国から独立国へ導いた不屈の臣、吉田茂。 未曽有の世界大戦に遭遇、日本の未来を背負った吉田の生涯の足跡を追いました。
吉田茂の足跡
足跡地域
足跡地
- 神田駿河台
- 麹町
- 一ツ橋
- 芝公園
- 神田小川町
- 四谷
- 東京大学
- 平河町
- 品川
- 虎ノ門
- 九段南
- 陸軍刑務所刑場跡
- 荻外荘
- 新宿
- 六本木
- 旧朝香宮鳩彦王邸宅
- アメリカ合衆国大使館
- 赤坂
- 羽田空港
- 皇居
- 旧久邇宮家邸
- 麻布
- 横浜
- 耕余塾跡
- 大磯
- 旧吉田茂邸
- 川崎
- 藤沢
- 茅ヶ崎
- 箱根
- 横浜港
- 熱海
- 名古屋
- 京都
- 大阪
- 神戸
- 下関
- 長崎
- スエズ運河
- ポートサイド
- ホノルル
- サンフランシスコ
- リノ
- オグデン
- シャイアン
- オマハ
- シカゴ
- ピッツバーグ
- ワシントン
- ニューヨーク
- ウェーク島
- 戦争記念歌劇場
- ホワイトハウス
- バンクーバー
- ガンダー
- モントリオール
- オタワ
- リオデジャネイロ
- サンパウロ
- アデン
- シンガポール
- コロンボ
- バンコク
- カラチ
- マニラ
- クアラルンプール
- ベイルート
- 釜山
- ソウル
- 丹東
- 瀋陽
- 長春
- ハルビン
- 満洲里
- 遼陽
- 大連
- 青島
- 濰坊
- 済南
- 上海
- 香港
- 新民
- 錦州
- 山海関
- 唐山
- 天津
- 北京
- 台北
- 台中
- コーブ
- シャノン
- トリノ
- ジェノヴァ
- ピサ
- ローマ
- フィレンツェ
- ヴェネツィア
- ベローナ
- メッシーナ海峡
- ナポリ
- ボローニャ
- ミラノ
- ブレンナー
- ロンドン
- 在英国日本国大使館
- リバプール
- サウサンプトン
- マンチェスター
- ジブラルタル
- ブリーク
- ジュネーブ
- バーゼル
- ベルリン
- ハノーファー
- ケルン
- ミュンヘン
- ニュルンベルク
- ライプツィヒ
- フランクフルト
- ボン
- アムステルダム
- バチカン
- カレー
- パリ
- ディジョン
- モダーヌ
- マルセイユ
- ニース
- リヨン
- ヴェルサイユ宮殿
- グルノーブル
- カンヌ
- ミンスク
- ブリュッセル
- オーストエンデ
- リスボン
- ヴィルバリス
- チタ
- イルクーツク
- ノヴォシビルスク
- エカテリンブルグ
- モスクワ
- シドニー
- キャンベラ
- メルボルン
- ダーウィン
- 平壌
年表
- 1878年|明治11年|1歳
9/22、東京で誕生(高知自由党志士竹内綱と滝子の五男)
- 1881年|明治14年|4歳
事前の約束通り、横浜の吉田家(吉田健三)の養子に 健三は横浜に居を定めていたのでそこで過ごしたか
- 1889年|明治22年|12歳
2月、耕余義塾入学(5年間在学) 12/1、吉田健三死去
- 1894年|明治27年|17歳
9月、日本中学校入学
- 1895年|明治28年|18歳
9月、高等商業学校へ転校 11月、正則尋常中学校へ転校
- 1896年|明治29年|19歳
3月、正則尋常中学校卒業 9月、東京物理学校入学
- 1897年|明治30年|20歳
10月、学習院中等学科六年級へ編入
- 1898年|明治31年|21歳
9月、学習院中等学科卒業、高等学科入学
- 1901年|明治34年|24歳
8月、学習院高等学科卒業 9月、学習院大学科入学
- 1904年|明治37年|27歳
9月、学習院大学科廃止となり、東京帝国大学法科大学政治学科へ編入
- 1906年|明治39年|29歳
7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業 9月、外交官領事官試験合格 11/15、領事官補に任官
- 1907年|明治40年|30歳
2/9、奉天在勤を命じられる
- 1908年|明治41年|31歳
2/16、ロンドン在勤を命じられる
- 1909年|明治42年|32歳
3/10、牧野伸顕(大久保利通二男・枢密顧問官)の長女雪子と結婚 3/17、雪子を伴い、ロンドンへ出発 12/28、大使館三等書記官に任じられイタリア在勤を命じられる
- 1910年|明治43年|33歳
3-4月、ロンドンからローマへ 6/1、長女櫻子誕生
- 1912年|大正元年|35歳
4/1、長男健一誕生 8/2、安東領事を命じられる 9-10月、ローマから安東へ
- 1914年|大正3年|37歳
1/15、次女江子誕生(翌年7月死亡) 7月、第一次世界大戦勃発 8/23、日本参戦
- 1915年|大正4年|38歳
5/13、三女和子誕生
- 1916年|大正5年|39歳
10月、外務省本省勤務を命じられる(東京へ)
- 1917年|大正6年|40歳
7/16、大臣官房文書課長心得を命じられる 8/10、二男正男誕生
- 1918年|大正7年|41歳
2月、在アメリカ大使館二等書記官としてワシントンD.C.へ 2/28、済南領事を命じられる 8月下旬ワシントン出発、10月に済南へ着任 12/10、牧野伸顕全権に随行して、パリ講和会議に向かう(一度東京へ戻り横浜を出港)
- 1919年|大正8年|42歳
1/18、パリ講和会議開催(吉田は1/30パリに着いた) 6/28、ヴェルサイユ条約調印 9月、帰国(アメリカ経由) 11月、駐イタリア大使館一等書記官に任命
- 1920年|大正9年|43歳
1月、イタリアへ出発、2-3月ローマに着任 5/1、イギリス在勤を命じられロンドンへ
- 1922年|大正11年|45歳
1/9、実父竹内綱死去 3/25、天津総領事を命じられる 8-9月帰国、11月天津着任
- 1923年|大正12年|46歳
9/1、関東大震災
- 1925年|大正14年|48歳
10/19、奉天総領事を命じられる、奉天へ
- 1927年|昭和2年|50歳
6/27-7/7、田中義一内閣で対中国政策を明確にするため東方会議があり出席(一時帰国) 7/8、牧野と懇談
- 1928年|昭和3年|51歳
3/30、奉天総領事退任、待命となる、4月帰国 春、田中に会い外務次官自薦猟官運動 7/24、外務次官に任じられる
- 1929年|昭和4年|52歳
2/5、養母士子死去
- 1930年|昭和5年|53歳
12/6、駐イタリア大使を命じられる
- 1931年|昭和6年|54歳
2月ローマへ、3月ローマ着 3/17、長女櫻子、吉田寛と結婚 9/18、満州事変勃発
- 1932年|昭和7年|55歳
2-11月、国際連盟総会臨時会議代表を務める(ジュネーブまで行き来) 3/1、満州国建国宣言 5/15、五・一五事件 10/24、イタリア大使の任を解かれる、この後12月までジュネーブで国際連盟任務 12/5、ジュネーブ発、満州国・中華民国へ視察旅行に出発
- 1933年|昭和8年|56歳
1/14、帰国 1/30、ドイツでヒトラー内閣成立 3/27、日本が国際連盟を脱退
- 1934年|昭和9年|57歳
10/9、巡閲使として欧米諸国へ(11月NY、11月中旬ロンドン)
- 1935年|昭和10年|58歳
1月ロンドン発(パリ、ローマ、ベルリン、モスクワ、満州を経る) 2月帰国、昭和天皇に成果を上奏 11/18、外務省を退官
- 1936年|昭和11年|59歳
2/26、二・二六事件 3月、広田弘毅内閣の組閣参謀となり、外相候補とされるも軍部によって阻止される 4/10、駐イギリス大使を命じられる 5/22出発、6月着任(ロンドンで過ごす、日英協調へ奔走、通商摩擦解消のためマンチェスターなど訪問) 11月、日独防共協定調印(吉田は頑なに反対:イギリス駐在武官辰巳栄一に説得されるも反対、辰巳も吉田の意見に納得)
- 1937年|昭和12年|60歳
5/12、英国王ジョージ六世の戴冠式に天皇の名代として出席する秩父宮にヨーロッパ情勢を報告 7/7、盧溝橋事件、日中戦争勃発、11月ブリュッセル会議にオブザーバー参加
- 1938年|昭和13年|61歳
4月体調不良で静養(ジュネーブ・南仏) 9/29、宇垣外相辞任、吉田も駐英大使の職を解かれる 11月出発 12/11、三女和子が麻生太賀吉と結婚 12/14神戸着
- 1939年|昭和14年|62歳
3/20、依願免本官(この後憲兵隊に監視される状態になる) 8/23、独ソ不可侵条約 アメリカ駐日大使ジョセフ・C・グルー、イギリス駐日大使クレーギーとの接触を続け、日本の国策が反英米であるわけではないと説き続ける 9/3、第二次世界大戦勃発 10/13、グルーの夏休み後執務開始記念晩餐会を自宅で開く 12月、宇垣一成擁立運動に手を貸す 12/8、吉田邸で宇垣と近衛文麿の会談
- 1941年|昭和16年|64歳
8/25、真崎甚三郎を訪問し、宇垣とともに意見交換してほしいと訴える 10/7、妻雪子死去 10/17、近衛内閣を辞める、東條英機が首相に 11/1、東郷茂徳外相が大本営政府連絡会議に乙案を提示(対米英協調派の抵抗) 11/27、ハル・ノート(アメリカ政府から示された日本政府への回答)が日本到着 11/29、虎ノ門の東京倶楽部でグルー米大使と会談、連絡会議で日米開戦決定 12/1、御前会議で日米開戦決定 12/8未明、ハワイ真珠湾攻撃、太平洋戦争勃発
- 1942年|昭和17年|65歳
2/15、シンガポール陥落、終戦工作開始(スイスに近衛を派遣する案作成) 6/6-7、ミッドウェー作戦の敗戦 6月初旬、近衛にスイスに近衛を派遣する案を申し出る 6/11、木戸幸一を訪ねて案を伝える、木戸は黙殺→木戸・近衛に強い不満 8月、小畑敏四郎と会い、真崎・宇垣の一角に加わるよう説得 8-11月、宇垣・真崎の連携を策して二人を自宅で会わせる動き→やがて宇垣に見切りをつける
- 1944年|昭和19年|67歳
3月、若槻礼次郎に書簡を送る(「吉田反戦グループ:ヨハンセン・グループ」の拡大) 6-7月、「あ号作戦」の失敗、サイパン制圧→東條内閣瓦解 11月頃、レイテ決戦で致命的な打撃
- 1945年|昭和20年|68歳
2/7-26、七人の重臣の参内 2/13夜、平河町の私宅にいる吉田のもとに近衛が訪ね、上奏文を見せる(フィリピン諸島リンガエン湾に米軍上陸が始まっていた時、「天王山」と呼号した作戦にも失敗している頃) 2/14、近衛上奏、その後吉田のもとへ報告 4/5、鈴木貫太郎内閣誕生 4/15、鈴木内閣誕生が和平につながると焦った陸軍指導部の指示で憲兵隊に検挙、逮捕 (平河町私邸に憲兵隊から女中と陸軍省兵務局防衛課の秘密部員、大磯邸には別の防衛課の秘密部員が入り込んでいた) 早朝に大磯吉田邸に東部軍軍法会議の法務官の拘引状を持った憲兵隊の検挙班のメンバーが訪れ、流言飛語をまき散らしたことと軍機保護法違反で逮捕、東京憲兵隊で5/2まで取り調べ 黙秘を通す その後代々木の陸軍刑務所に移され、5/25まで監房 鈴木内閣の外相東郷茂徳は陸相阿南惟幾に吉田釈放を申し入れ、阿南も関係機関に釈放を働きかけ5/25釈放 阿南の裁断により不起訴処分と伝えられる 要注意人物と知られたか訪ねる人もなく静かに敗戦の日を迎える 8/6、広島原爆投下 8/9、長崎原爆投下 8/15、終戦、鈴木貫太郎首相は辞意 東久邇宮稔彦内閣発足 近衛自宅(荻窪の荻外荘)で小畑敏四郎と三人で大量飲酒、大磯を寝過ごし熱海駅待合で一夜を過ごす 8/30、マッカーサーが厚木に到着 9/2、ミズーリ号でポツダム宣言受諾の調印 9/17、東久邇稔彦内閣の外相に就任(重光外相から交代) 9/20、マッカーサーを訪ねる 9/27、天皇、マッカーサーをアメリカ大使館に訪問 10/9、幣原喜重郎内閣成立、外相に就任 10月頃、松本烝治委員会で憲法改正草案作成開始 11/9、日本自由党結成(鳩山一郎総裁) 憲法改正について別ルートで独自に動いていた近衛だが、12/1に戦犯容疑者として逮捕令、巣鴨プリズンへの出頭前夜(12/16)に自決
- 1946年|昭和21年|69歳
1/1、天皇の人間宣言 1月末、寺崎英成を宮内省御用掛に強く推挙 2/1、毎日新聞スクープ:松本委員会の憲法私案スクープ 2/3、マッカーサーの命令でGHQ内部に憲法改正のための運営委員会(ホイットニーを中心)が憲法草案作成開始 2/13、外相公邸でホイットニーと会談、GHQ作成モデル案に基づいて日本案を作ってほしいと依頼される 松本、白洲次郎と三人で案を検討→怒りと失望 2/19、再度日本案を作ることを決定 3/2、日本案をGHQに提出→ホイットニー・ケーディスは激怒 3/4の午後から3/5の16時過ぎまで、GHQ案と日本側の案文をもとに最後の案文作り(日本側からは白洲と法制局、外務省スタッフ、GHQからはケーディスを中心にしたスタッフ) GHQ案が主張する「天皇の象徴化(第一条)」「戦争放棄(第九条)」はまったく議論の対象とされないほどGHQの強硬な態度 最終的には天皇が決断 3/5、GHQ主導でまとまった「憲法改正草案要綱」は天皇の諒解を得た 4/10、総選挙で自由党が第一党に 4/22、幣原内閣総辞職 5/3、極東国際軍事裁判開始(東條英機をはじめA級戦犯が断罪) 5/4、鳩山一郎自由党総裁公職追放 5/13、鳩山に会い自由党総裁を引き受ける旨を伝える 5/14、自由党総裁就任を受諾 5/22、第一次吉田茂内閣成立、憲法問題専任大臣に金森徳次郎を任命 6/8、枢密院審議で新憲法草案可決 8/18、自由党総裁に正式就任 10/7、憲法改正案可決 10/29、枢密院に天皇も出席して改正法案に改めて賛成の意が確認、枢密院も廃止決定 11/3、日本国憲法公布(翌年5/3施行)
- 1947年|昭和22年|70歳
1/1、革命の気運を盛り上げている指導者とそれに追随する人民、労働者を「不逞の輩」と年頭の辞 1/31、マッカーサーが共産党の革命戦略、二・一ゼネストを中止に追い込む 4/25、衆議院選挙、総選挙で高知県から出馬、初当選→第一党は社会党 5/20、吉田内閣総辞職 社会党・民主党・国民協同党の連立内閣は不安定 吉田はこの間GHQ内部のGS(民政局:ホイットニーら)対G2(参謀第二部:C・A・ウィロビー)の対立はG2側に立ち、また崩壊する連立政権を見ながら後に吉田学校と呼ばれる吉田人脈(大蔵省の池田勇人や運輸省の佐藤栄作ら)を形成していく
- 1948年|昭和23年|71歳
2月、衆議院で民主自由党が結成、吉田が総裁となる 10/7、芦田内閣が倒れると、吉田ではなく民主自由党の幹事長の山崎猛を首班に据えるような動きが出る 10/9、マッカーサーと面会 10/15、第二次吉田内閣誕生 10/19、第二次吉田内閣成立(官房長官に佐藤栄作) 11/12、極東国際軍事裁判判決 12/23、内閣不信任案可決、衆議院解散、A級戦犯7人の絞首刑実施
- 1949年|昭和24年|72歳
1/23、総選挙で単独過半数を獲得 1/25、岳父牧野伸顕死去 2/16、第三次吉田内閣成立(蔵相に池田勇人) 2月半ばから3月半ばまでドッジと池田の間で予算案の粘り強い交渉 3月、アメリカのGHQの財政顧問J・M・ドッジ公使、経済安定政策を発表 4月の予算審議でGHQ予算案を政治力と与党絶対多数の状況を利用して通す 4月、GHQ、一ドル三六〇円の単一為替レート設定 7月、三鷹事件(中央線三鷹駅で無人電車暴走) 10/1、中華人民共和国成立 11/11、参議院で単独講和に応ずると答弁
- 1950年|昭和25年|73歳
1月、コミンフォルム機関紙、日本共産党の平和革命論を批判→共産党の内部分裂 2月、GHQ、沖縄に恒久的な基地建設を発表 3/1、自由党結成(総裁に就任) 池田勇人蔵相「中小企業倒産やむなし」と放言、国会で追及 4月、池田勇人蔵相を財政視察の名目でアメリカに派遣(白洲次郎も同行)、アメリカ政府への親書を託す(講和条約と日米安全保障条約の二本立ての伏線を敷く) 5月、吉田、南原東大総長を「曲学阿世の徒」と決めつける 5/3、マッカーサーは日本国憲法施行三年目の記念声明で日本共産党に対して断固とした措置を取ることを発表 6月、共産党中央委員の公職追放 6/22、吉田・ダレス会談(再軍備を促される、吉田は抵抗、J・F・ダレス:国務省特別顧問) 6/25、金日成指揮の北朝鮮軍が韓国に一方的に軍事行動、朝鮮戦争勃発 6/26、「アカハタ」三十日間発行停止 7月、マッカーサー、警察予備隊創設指令 7/8、マッカーサーから警察予備隊75000人の新設と海上保安庁8000人の増員の指令 7/14、第八通常国会の施設演説で集団防衛体制に初めて触れる 7/18、「アカハタ」無期停刊 9/1、レッドパージ(共産党員の追放)方針決定 10月、旧軍人3250人、初の追放解除
- 1951年|昭和26年|74歳
1/29、吉田ダレス会談:ダレスは再軍備させたい、吉田は反対・不可能、先に自主独立 1/31、第二回吉田ダレス会談 2/1からは事務方の協議へ(日本側:外務次官の井口貞夫・外務省条約局長西村熊雄ら、アメリカ側:シーボルト大使・アリソン公使ら) B案(日米安全保障協力協定案)で進める 2/3夜、吉田文書「再軍備についての第一段階」(講和条約発効後)をアメリカ側へ 2/7、第三回吉田ダレス会談(何の制約もない講和条約とアメリカとの安全保障協力に対する強い態度が対となっている) 2/9、日本とアメリカの事務方が仮覚書に仮署名(日本はひとまず主権を回復するプログラムを持つ) 2/11、ダレスは随員と日本を離れる(マニラ、オーストラリア、ニュージーランドを回り条文を示し、ワシントンに戻って条文作りに国務省のスタッフと没頭) 2月、ダレス特使が集団安全保障、米軍駐留の対日講和方針を発表 4/11、マッカーサー罷免、夜シーボルトにより吉田に伝わり動揺(4/15マッカーサー離日) 4/18、マッカーサー後任リッジウェーとダレスと三者会談 5/1、リッジウェーの特別声明:占領政策の緩和という方向での日本政府の独自性を容認 6月、追放解除本格化 6/11、鳩山が脳溢血で倒れる 6/24、連合国の間、ダレスとイギリス外相モリソンがまとめた講和条約案がアリソン公使から日本側へ渡される 7/31、体調を崩して箱根で静養、党三役の報告(臨時国会を開く、民主党は全権団に加わるの二点)に激怒 8/2、麻生太賀吉と池田勇人が説得、翻意を促す 8/3、最大野党の国民民主党の苫米地英俊と極秘裏に会見、国民民主党の全権団への参加と臨時国会を開くことを決める 8/18、国民民主党の全権可分論(講和条約の調印式には出席、日米安全保障条約の調印式には欠席)をしぶしぶ認めるかわりに、全権団の構成を一気に可決 8/31、サンフランシスコへ飛び立つ 9/2、サンフランシスコに入る、アメリカ政府代表のダレスと国務長官アチソン(講和会議議長を務めることになっていた)を宿泊先のホテルに訪ねる 9/4-9/8、サンフランシスコ講和会議 9/4、サンフランシスコ講和会議に出席(52か国参加、ソ連など3か国は8日の調印に不参加:ソ連グロムイコ代表の批判と吉田の怒り、あと2国はチェコスロバキアとポーランド) 9/8、講和条約・日米安全保障条約調印(48か国と) 9/8夕方、サンフランシスコ市内の第六軍司令部の中で日米安保条約の調印式(アメリカ代表はアチソンとダレスとその他二人の上院議員、日本側は吉田のみ) 9/14、日本に戻る、皇居に赴き、天皇に会議の内容報告 9/19、天皇皇居でお茶の会(全権団一行を招いて)
- 1952年|昭和27年|75歳
3月、吉田、参議院予算委員会で「自衛のための戦力は違憲ではない」と答弁 4/28、GHQ廃止、講和条約・日米安保条約発効 5/1、血のメーデー事件:共産主義者の武装デモ(破防法に対して)VS警官(宮城前広場) 7月、破壊活動防止法公布 8月、保安庁新設 8/13、日本、IMF・世界銀行に加盟 8/28、衆議院解散(抜き打ち、鳩山系議員の追い落とし戦略) 10/30、第四次吉田内閣成立 11/10、皇太子明仁親王、立太子礼(寿詞で「臣茂」という) 11/27、池田通産相、「中小企業の倒産・自殺やむなし」と再び放言(11/29辞任)
- 1953年|昭和28年|76歳
2/28、衆議院予算委員会で、右派社会党西村栄一議員に「バカヤロー」発言 3/2、吉田首相に懲罰動議可決 3/14、内閣不信任案可決、衆議院解散(バカヤロー解散) 4/19、総選挙 5/21、第五次吉田内閣成立 8月、ダレスとの会談 10月、池田・ロバートソン会談(アメリカにて) 11/29、分党派自由党解体、23人復党(三木武吉ら残留派8人は日本自由党結成)
- 1954年|昭和29年|77歳
2/23、造船疑獄発覚 4/21、犬養健法相、指揮権発動して、佐藤栄作自由党幹事長逮捕許諾請求を阻止(造船疑獄事件) 7/1、防衛庁・自衛隊発足 9/26、吉田首相、欧米五か国歴訪に出発 (9/26羽田、ウェーク島、ホノルル、9月下旬~10月上旬オタワ、10月上旬パリ、中旬ボン、中旬~下旬ローマ・バチカン、下旬ロンドン、11/2頃ニューヨーク、初旬ワシントン、中旬サンフランシスコ、ホノルル、ウェーク島、11/17東京) 10/2、パリ発言 10/21、新党拡大大会(これを機に新党運動は加速がつく) 11/17、帰国、羽田着、夜に副総裁の緒方竹虎と食事(自由党幹部の総意が勇退であると伝えられる) 11/24、日本民主党結成(総裁鳩山一郎) 11/28、自由党議員総会で、吉田総裁の勇退・緒方竹虎新総裁を決定 12/6、内閣不信任案提出 12/7、最後まで解散論だったが、池田の涙ながらの諫言で辞職を判断、吉田内閣総辞職、吉田は閣議から脱け出し、目黒の公邸をはなれ大磯に帰る 12/10、鳩山内閣成立
- 1955年|昭和30年|78歳
2/27、総選挙で当選 11/15、自由民主党結成
- 1956年|昭和31年|79歳
7月、モスクワに行く重光全権に「与うるの書(7/21公表)」 10/19、日ソ共同宣言 11/27、日ソ共同宣言批准
- 1957年|昭和32年|80歳
6/21、日米共同声明
- 1959年|昭和34年|82歳
11/25、オーストラリア、東南アジア訪問(12/29帰国) (11/25出発、11月末~12月上旬にキャンベラ・シドニー・メルボルン、12/16頃シンガポール、12/18クアラルンプール、12/29東京)
- 1960年|昭和35年|83歳
1/19、新安保条約調印 4月、社団法人日米協会会長に就任 5/12、日米修好通商百年親善使節団団長として訪米 (5/12羽田、ホノルル、サンフランシスコ、中旬NY、ワシントン、下旬NY、ロンドン、パリ、ボン、ローマ、6月上旬ローマ、ベイルート、カラチ、バンコク、香港、東京) 6/15、国会内にデモ隊乱入(六十年安保騒動) 7月、池田内閣成立
- 1962年|昭和37年|85歳
5/1、ブラジル、伊、英、仏、ベルギー、オランダ歴訪(6/6帰国) (5/1東京、5/2ホノルル、5/3ワシントン(ホワイトハウス)、ニューヨーク、5/4-10頃リオデジャネイロ、サンパウロ、リオ、リスボン、5月中旬ローマ、ロンドン、下旬パリ、ブリュッセル、アムステルダム、ローマ、ベイルート、カラチ、バンコク、香港、東京)
- 1963年|昭和38年|86歳
7/9、池田が大磯吉田邸を訪ねる(佐藤を相応に遇してほしいとの懇願?) 10/22、衆議院解散、政界引退 末から1964初め、周鴻慶事件
- 1964年|昭和39年|87歳
2/23、台湾(台北)訪問(2/23-27蒋介石説得:2/23出発、2/26台中にも行く、2/27台北から帰国) 4/6、マッカーサー葬儀参列のため渡米(4/9NY、4/18帰国) 5/6、大勲位菊花大綬章 この後皇室参与の肩書きが与えられる 7/10、自民党総裁選で池田が三選(その前に佐藤に譲るよう画策していたが失敗) 9月、アジア調査会会長となる 9月、イギリス労働党のアトリー卿が大磯の吉田私邸に招待して会談 10/25、池田が喉頭癌のため辞意を表明 11/9、池田後継に佐藤を指名(党内が佐藤でまとまっていたため)、佐藤栄作内閣成立
- 1965年|昭和40年|88歳
1月から吉田にノーベル平和賞を授与させる運動が起こるが、10月末の発表に吉田の名はなし
- 1966年|昭和41年|89歳
8月、ブリタニカ社のイア・ブックへ寄稿
- 1967年|昭和42年|90歳
6月頃から体調を崩し始める 10/20、午前11:30容態が悪化、11:50死去(従一位大勲位菊花賞頸飾を授与される)
日付表記について:日本でグレゴリオ暦が正式に採用された1873/1/1を超えた人物は、グレゴリオ暦での日付を記載しています
参考文献
吉田茂 戦後日本の設計者
保阪正康 / 朝日新聞出版
宰相 吉田茂
高坂正堯 / 中公クラシックス
当サイトはAmazonアソシエイトおよび楽天アフィリエイトに参加しており、適格販売により収入を得ています。







