山名宗全
室町時代 戦国・安土桃山時代/1404~1473年
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応仁の乱で西陣のリーダーとなる山名宗全。 室町幕府内で有力者にのし上がった宗全の足跡を追いました。
山名宗全の足跡
年表
- 1404年|応永11年|1歳
5/19、誕生(場所は諸説) その後、父山名時煕が幕政に参加する有力大名にのし上がる(過ごしたのは京か但馬守護所?)
- 1421年|応永28年|18歳
12月、備後で国人蜂起、兄山名煕高とともに退治するため下向
- 1422年|応永29年|19歳
2/28に退治して(敵は合戦に及ばずに退散)、備後より上洛
- 1428年|正長元年|25歳
4/23、父山名時煕が病気(三日病)、遺跡継承が兄山名持煕と宗全で問題となる
- 1431年|永享3年|28歳
5月、兄山名持煕が将軍足利義教の不興をかう、宗全が山名家惣領後継者の最有力となる
- 1432年|永享4年|29歳
1/15、幕府椀飯を沙汰 遣明船出発
- 1433年|永享5年|30歳
8/9、父時煕一跡を継承、但馬・備後・安芸・伊賀守護を安堵される 10/10、宗砌の新庵での歌会に参加 11/26、父を中心として幕府軍が出陣決定、山門争乱に父・諸大名と衆徒攻撃に参加 11/27、坂本へ出陣 山名勢は三井寺に陣(宗全が指揮)、鴨川合戦 11/30、琵琶湖畔の唐崎・志賀で戦闘 12/1-2、比叡山麓に戦闘広がる 12/12、張本の圓明坊が隠居、乗蓮坊が降参の条件でひとまず終わる
- 1434年|永享6年|31歳
1/12、山名煕高とともに満済壇所に向かう 5/18正徹参加・11/16自亭で歌会 11/19、山門攻撃に出陣、宗全は東坂本へ向かい、坂本はほとんどが焼け落ちる、山門側が屈服(時煕は出陣せず) 第十次遣明船
- 1435年|永享7年|32歳
7/4、父山名時煕死去
- 1436年|永享8年|33歳
7/4、時煕一年忌供養する 8/25、但馬国一宮の出石神社に願文を納める
- 1437年|永享9年|34歳
7/4、故時煕の大詳忌 7/11、夜に足利義教弟で大覚寺門跡義昭が逐電し大和入り、山名持煕が与同 7/25-26、持煕が備後で兵を挙げ(国府城?)、守護被官と合戦し討ち死に 7/30、持煕が備後で討伐されたことが報告される 12月、赤松満祐との間に確執、将軍足利義教の成敗で宥められる
- 1438年|永享10年|35歳
3月、足利義教の御成を受ける 7月、大和天川で蜂起した義昭に連動して多武峰衆徒(越智維通ら)が蜂起 8月、管領細川持之や畠山持国とともに幕府軍として出陣 8/28合戦で勝利、9月帰還
- 1439年|永享11年|36歳
1月正四位下、右衛門佐となる 6/21、足利義教御成を受ける
- 1440年|永享12年|37歳
5月、侍所別当に就く
- 1441年|嘉吉元年|38歳
6/24、嘉吉の乱が勃発 足利義教が京都赤松邸で殺害、山名煕貴は殺害、宗全は逃げ帰る(山名邸:芝町) 7/28、赤松討伐に出陣、搦め手の但馬口を担当、大手口の摂津からの軍勢(山名教之ら)との連携もかない、赤松勢を追い詰め屈服 8/28、但馬生野から播磨へ侵攻、赤松勢を撃破:合戦場は大山口→栗賀→田原口、赤松軍は坂本城に退く 9/5、播州坂本城で勝利、敵陣は木山城に立てこもり赤松方から多くの降参人が出たとの知らせが届く 9/12午前9-10時、木山城の赤松父子(赤松満祐・赤松教康)を攻め落とし満祐自害、その後帰京(日時は一説) 閏9月、播磨守護を補任(東三郡は幕府直轄領:赤松満政に預けられる)(備前に山名教之、美作に山名教清と山名一族) 10/11、播磨守護所に入り、守護代三人(垣谷・太田垣・犬橋)を置く 11/25、上洛
- 1442年|嘉吉2年|39歳
6/14、祇園社祭礼中に山名金吾被官と駕輿丁とが刃傷事件、神輿を汚す(1442-1443の間に出家?)
- 1443年|嘉吉3年|40歳
5/7、鴨河原で浄蓮華院修造勧進猿楽、管領畠山・細川・山名が桟敷を構える 5/9、山名右衛門佐入道は紫野大徳院僧衆に招かれ饗応を受けるが住持なきを知る 6/3、故中務大輔山名煕貴の女を猶子とし、大内教弘に嫁す 9/15、伊勢神宮に参詣 月不明、挙兵した赤松氏残党を討伐
- 1444年|文安元年|41歳
1月、播磨東三郡を与えられる 4月、播磨東三郡で郡散合を実施 5/26-28、土御門河原で来迎堂造営勧進猿楽を催す 11/25、赤松満政率いる赤松氏が播磨へ引き上げる 12/28、赤松を退治するため進発、但馬に入る 12月、真弓峠合戦
- 1445年|文安2年|42歳
1/26、赤松追討の綸旨 1-2月、播州合戦 2/9-10、播磨で山名軍は赤松軍と合戦(陣は七宝寺)、赤松満政父子を討ち但馬へ帰る
- 1447年|文安4年|44歳
2月、娘聟に細川勝元を迎える 3/8、山名教之若党齋藤らの紛争を処理、齋藤は帰国 7/4、故時煕十三回忌仏事を南禅寺栖真院で主催 7/16、宗全討伐綸旨が出たとの噂(芝の宗全宿所に兵士が集まる、京都も緊張) 万里小路時房らの奔走で虚説とわかり落ち着く
- 1448年|文安5年|45歳
9月、備前・播磨・美作三国を赤松則尚に与えるとの下知があるも渡さず 12月、赤松則尚の事で、細川持常と対立、公方の宥により鎮まる
- 1449年|宝徳元年|46歳
閏10/5、細川邸犬追物に参加
- 1450年|宝徳2年|47歳
9/1、山名教之と不和
- 1451年|宝徳3年|48歳
7/4、時煕二十五年忌を催す(十七回忌?)
- 1453年|享徳2年|50歳
10/8、自亭に三宝院義賢が出御し、正徹らと歌会
- 1454年|享徳3年|51歳
8月、畠山家内の争いに、細川勝元と共に畠山弥三郎を支援 10/5、赤松有馬民部少輔が室町殿西の小川で山名氏従者?に襲われる事件あり 11/2、宗全退治命令が足利義政から出て失脚 12/6、但馬に下国(居住は城崎庄)
- 1455年|享徳4年|52歳
5月、但馬から播磨に出兵、室山城を攻める赤松勢を背後から攻撃、赤松則尚は備前に落ち自害(鹿久居島で5/12自害) 10/17、但馬西光寺で亡母十七回忌を行う
- 1458年|長禄2年|55歳
6/14、幕府使者が宗全を訪問、御免を伝える 8/9、上洛していた宗全は幕府に出仕 11/27、将軍御所室町邸造営沙汰を畠山義忠と宗全が命じられる 12月、足利義持三十三回仏事に山名一族費用負担する
- 1460年|寛正元年|57歳
8/5、宗全馬場にて犬追物 9/16、足利義政が畠山義就に隠居を命じる 9/20、河内へ義就下国 10/10、大和龍田で畠山政長軍と義就軍が合戦、政長勝利 10/25、義就嶽山城に籠る、寛正の河内合戦開始 閏9/5、管領細川邸で犬追物、宗全と山名教豊不和を和解 閏9/28、宗全出陣が決まっていたが、閏9/20に細川勝元の進言で中止 10月、細川邸での犬追物に参加 10/26、山名教豊と仲違い、教豊播磨へ下向
- 1461年|寛正2年|58歳
1/26、足利義政が宗全邸に御成、畠山義就退治について話し合い 2/21、一条兼良邸で連歌会に参加
- 1462年|寛正3年|59歳
9月、寛正三年の土一揆
- 1463年|寛正4年|60歳
4/16頃、嶽山城陥落、畠山義就は岡城を経て高野山に入る、その後吉野へ 8-9月、長福寺養源院僧処罰を巡り侍所京極氏と対立
- 1464年|寛正5年|61歳
1/22、足利義政が宗全新宅に御成 4/5・7・10、幕府主催の鴨川糾河原で勧進猿楽に参加 12/27、長宥律師を山名八幡社別当職に任命
- 1465年|寛正6年|62歳
1/22、宗全邸御成
- 1466年|寛正7年|63歳
1/22、幕府椀飯を沙汰、宗全邸御成(足利義視とともに) 閏2月、遣明船出発? 7/23、斯波義廉被免の動き 8/3、足利義政は宗全娘と斯波義廉との婚儀絶交を命じる(後に結ばれる) 9/6、足利義視殺害計画 9月、宗全・細川勝元らは7-9月の上記策謀の伊勢貞親・蔭凉軒西堂(季瓊真蘂)を追放、赤松政則・斯波義敏らも京都を去る(文正の政変) 義視・宗全・勝元で幕政を主導 12/25、畠山義就を京都に迎える(千本地蔵院を宿所)
- 1467年|応仁元年|64歳
1/5、畠山義就は山名邸で足利義政・足利義視を饗応 1/11、畠山政長から斯波義廉に管領交代 1/15、宗全椀飯を沙汰、宗全幕府中心部(斯波義廉が管領、畠山義就を復帰)を押さえる 細川勝元、畠山政長、京極持清、細川成之、赤松政則が密議、宗全が知り義廉と共に御所を制圧下に置く 1/16、足利義視を今出川から室町御所に移す(後土御門天皇・後花園上皇も迎える) 1/18、上御霊で畠山政長と義就が合戦、義就勝利、宗全・勝元は動かず 2/3、備後国岩成下村等を山内豊成に給付 3/5、応仁に改元 4月、宗全・斯波義廉・畠山義就連署書状を関東公方足利成氏に送る 5/18、赤松政則勢が播磨へ乱入、政則自身は勝元邸近くに居を移す、山名是豊は呼応して京都を脱出 5/20、山名党、細川党の軍勢がおのおの集結(山名党は管領邸) 5/26、山名軍と細川軍は一条大宮、久耕院、芝薬師などで合戦(応仁の乱開始:細川方武田信賢が山名方一色義直の屋形を攻撃することで開始、室町御所一帯は細川方が占拠、山名方は宗全屋敷中心) 5/30、山名政清屋形焼ける 6/8、将軍は足利義視を大将に宗全討伐を命じ、牙旗を細川勝元に与える(形式的には大儀は細川)、一条大宮(山名教之vs赤松政則)などで合戦、久我縄手でも合戦 6/13、細川・京極・赤松の軍は宗全館を攻める 6/21、細川に誘われて山名館近くの寺を焼いた寺僧を殺害 7月、淀川沿いの山崎周辺で合戦(舟橋合戦?) 7月、高山寺に禁制を出す 8月、山名方大内政弘軍が上洛(8/3兵庫発、8/23入京、東寺に陣後船岡山へ移る) 8/23、細川勝元は天皇・上皇の室町殿臨幸を実現 8/23、東軍大将義視が伊勢へ逃亡 9/1、畠山義就・朝倉孝景に大内政弘が加わり、三宝院を拠点とした武田勢を討つ 9/13、宗全、室町御所・相国寺・勝元邸を攻める、一条高倉でも合戦 10/3、相国寺に籠る東軍を西軍(畠山義就・朝倉孝景中心)が激しく攻撃(細川有利から山名有利、その後膠着)、相国寺は灰燼に帰す 10/3、宗全治罰の院宣・将軍御内書が出される 10/25、宗全・義就・義廉ら八人は連署状を東大寺・興福寺に送り同意を求める 12月、船岡山で大内政弘軍を東軍が攻める
- 1468年|応仁2年|65歳
1/1、細川軍が西陣を攻める 3月、下京から伏見にかけて戦闘 3/21、宗全らは稲荷社の骨皮道賢を攻め殺す 4/1、宗全陣で井楼、大内政弘は鹿苑院の東南に矢倉 4/16、畠山義就陣でも井楼が上がり、細川陣も高櫓を構える(5/27) 5/8、山名軍と細川軍と合戦、大内軍と赤松軍と合戦 7/10、幕府は管領に細川勝元を任命、西陣は斯波義廉を管領とする 8月、両軍は東山に戦い、西軍は青蓮院を焼き、清閑寺を壊す 8月東軍が西嵯峨、8/25西軍の民屋を焼く、西軍は大挙して東軍を嵯峨に攻める、火をかけたため諸寺院消失、東軍は城を作っていた船岡山を攻めて破壊(船岡山・西嵯峨の合戦:天龍寺・臨川寺は灰となる) 9月、足利義視が東軍に戻る 9月、船岡山で激戦 9月、壬生家・官文庫に禁制を出す 10月、西軍は関東公方に都鄙合体提案の御教書を送る 11/13、義視は比叡山へ逃亡 11/23、義視は西陣に入る 12/3、義視征伐の院宣 12/30、宗全は山内豊成に備後国信敷東分半分を給付
- 1469年|文明元年|66歳
1/8、宗全らは足利義視に刀・馬を進上 3/14、足利義視は宗全邸を訪問 3/16、細川軍兵が山名方芝薬師堂陣を襲う
- 1470年|文明2年|67歳
5月、西幕府は南帝を迎えることを決める 時期不明、重症の中風
- 1471年|文明3年|68歳
8/26、南帝小倉宮の王子は入京、宗全妹安山院に拠る 9/3、南帝の北野社参詣を宗全が沙汰
- 1472年|文明4年|69歳
3月、山名・細川の和議が起こるが成功せず 8月、家督を山名政豊に譲る
- 1473年|文明5年|70歳
1/13、山名教之が国元で死去 3/18、陣中で病死
日付表記について:日本でグレゴリオ暦が正式に採用された1873/1/1を超えた人物は、グレゴリオ暦での日付を記載しています
参考文献
山名宗全
山本隆志 / ミネルヴァ書房
山名宗全
川岡勉 / 吉川弘文館
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