上杉謙信

室町戦国安土桃山/1530~1578年

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戦国の銀嶺に生まれ、関東管領となり奔走した義将・上杉謙信。 生涯の足跡を追いました。

上杉謙信の足跡

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足跡地域

足跡地

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年表

  1. 1530年|享禄3年|1歳

    1/21、越後府中春日山城で誕生(父:越後守護代長尾為景と母:天甫喜清)

  2. 1536年|天文5年|7歳

    春日山城下の林泉寺に預けられる、住職天室光育のもと修行 4/10三分一原の戦い(長尾為景vs上条定憲で為景勝利? 4/23定憲死去

  3. 1540年|天文9年|11歳

    8月頃為景は晴景へ家督相続

  4. 1541年|天文10年|12歳

    12/24為景没す、葬儀に甲冑を着て参列(林泉寺に葬られる)

  5. 1542年|天文11年|13歳

    この年?天室光育は出家よりも武家になるべきと考え謙信を春日山城へ送り返す 還俗、元服

  6. 1543年|天文12年|14歳

    5/7天甫喜清死去 兄晴景の命で古志郡へ下向、8月はじめには栃尾城(城主は本庄実乃)に入っていたと考えられる 8月栃尾城をめぐる攻防戦でデビュー、勝利 9/20本成寺に寺領安堵状

  7. 1547年|天文16年|18歳

    秋、黒田秀忠が晴景兄弟に慮外の振る舞い、鎮める

  8. 1548年|天文17年|19歳

    10月以降、黒田秀忠の度々の晴景への無礼な振る舞いに対して守護上杉定実の許可を得たうえで黒田一類を悉く討ち果たす このまま府中にとどまり、定実の斡旋で病弱な晴景から謙信に長尾家の家督と守護代の地位が譲られる 12/30春日山城へ登城

  9. 1549年|天文18年|20歳

    4/19謙信は平子孫太郎に宇加地を安堵、長尾政景方の金子尚綱が非難 6月坂戸城主長尾政景が敵対 政景は俎板平城の宇佐美定満へ圧迫、宇佐美は平子に訴え 謙信の奉行本庄実乃は政景を指弾

  10. 1550年|天文19年|21歳

    2/26守護上杉定美が死去 2/28近江坂本に拠点を置いていた将軍足利義藤より白傘袋・毛氈鞍覆使用許可の免許(守護代ながら守護の格式を獲得)

  11. 1551年|天文20年|22歳

    1月宇佐美が反撃、政景方の発智長芳居城の山田城を攻撃 正月中に上田長尾方も古志郡へ出兵したが栃尾勢に退けられる 2月晴景死去 2/21大井田城の中条玄蕃允を上田軍が攻撃、中条は信濃川を渡り上野城に入り上野家成と協力して上田軍を撃退 5月に和睦の機運が高まるが、政景からの証人提出がされず 謙信は粘り強く交渉していたが証人提出されず7月になり陣触れ 政景は降伏、8/1に予定していた出陣は延引となり越後平定戦は一段落(国内統一)

  12. 1552年|天文21年|23歳

    1/10関東管領上杉憲政が平井城を出て越後に来る 5月従五位下弾正小弼の官位・官途を得る 7月越山(謙信は行かず?):越後勢の一部(平子孫太郎・庄田定賢)が上野・武蔵国境付近まで進出?(北河辺八島に制札を掲げる)

  13. 1553年|天文22年|24歳

    4/9北上する武田晴信に抵抗してきた村上義清が敗走、居城の葛尾城が落城 北信濃の国衆から出兵要請 4/12住国ならびに隣国の敵対する輩を治罰し朝廷へ忠義を尽くすようにとの後奈良天皇から綸旨が下される、いわゆる「治罰の綸旨」 4/22八幡まで進軍した武田晴信は村上義清ら北信濃国衆の激しい抵抗にあい葛尾城も取られて甲斐へ帰陣 8月再び侵攻、甲越両軍は布施・上野原で激突 9/1八幡で三度激突、武田方に勝利、敗走する武田勢を追撃して千曲川沿いを南下、荒砥城を落城 9/3青柳を襲って在所に放火 9/4会田の虚空蔵山城を陥れる これに対して武田勢は麻績、荒砥に夜襲、9/13に八幡まで後退した越後勢はかわすように転進 9/18南条に放火 9/20に越後勢は兵を引き第一次川中島合戦終了 秋、北陸道を進んで上洛、参内、権中納言広橋国光に饗応を受け、禁裏を拝観して退出、後奈良天皇より御剣「無銘豊後瓜実」・天盃を賜る 高野山参詣、10/12高野山清浄心院に上杉頼房の菩提を弔う 11/13本願寺訪問、宗主証如に面会 11月に堺、京都に戻り12月に大徳寺と交渉、12/8徹岫宗久から「三帰五戒」および「宗心」の号を授かる 暮れに越後へ帰国

  14. 1555年|弘治元年|26歳

    1月頃、春日山城を出て刈羽郡に出陣(北条城南の善根へ出陣、北条高広が武田晴信と通じて反乱?) 4月、善光寺別当栗田鶴寿が武田方に寝返ったという知らせが届く 4月出陣、4/18山を越えて信濃入り、4/25敵陣数か所を放火、旭要害を再興して陣を置く 7月中旬、善光寺東の横山城に陣、7/19武田方と衝突 栗田は旭山城に籠り、裾花川を挟んで北の葛山城に謙信味方の落合一族が籠り旭山城を牽制 武田晴信は7/23に信濃へ出陣、大塚の犀川南岸に陣、膠着状態となり長期の睨み合いへ 閏10/15に駿河今川氏の仲介で和睦(第二次川中島合戦)(旭山城は破却)

  15. 1556年|弘治2年|27歳

    越後国外へ出奔、3月には政庁が機能不全に陥っている 長尾政景の引き止めで隠遁を撤回 隠遁騒動の最中、奉行のひとり大熊朝秀が武田・会津蘆名氏に通じて出奔 大熊が挙兵したときには謙信は国主に復帰している 8/23越中口から乱入を図った大熊朝秀を駒帰で迎撃、破る(大熊はその後武田家臣へ)

  16. 1557年|弘治3年|28歳

    隠遁騒動中に武田方は善光寺平をおさえ信濃国境まで勢力拡大(葛山城を奪う) 4/18府中出発、信濃へ入り、飯山方面から善光寺平を目指す 途中、武田方の「山田之要害」と福島城を奪還 4/21までに千曲川を渡って善光寺に着陣、その後陣を引き払い再び千曲川沿いを北上 4/25武田方の拠点数か所に攻撃、根小屋以下悉く放火、旭山城を再興 5/10飯山方面へ小菅山元隆寺に願文 5/11善光寺平へ再出撃、5/12香坂とその周辺を放火 5/13坂木・岩鼻まで進出、武田方と衝突 6月再び北へと転じ日向城の市河氏を攻めるが攻略できず、6/23飯山へ撤退 7月までに越後へ帰国(第三次川中島合戦) 7/5武田晴信は小谷城攻略

  17. 1559年|永禄2年|30歳

    4月上洛、北陸道を進む 4/20近江坂本の旅宿、4/21洛中へ、5/1参内(正親町天皇より天盃と御剣「粟田口吉光」、通称「五虎退」を賜る) 一旦坂本に戻る 6月再入京、その後足利義輝に拝謁、坂本に戻る、関白近衛前嗣と面会、6/26下記特権付与 ①「裏書御免」 ②「塗輿」免許 ③「関東上杉五郎憲政の進退について意見を加えること(関東出兵への大義名分)」 ④「信濃国諸侍に意見を加えること(信濃出兵への大義名分)」 ⑤「出羽最上氏が差立の早道馬について分国中の通行許可」 ①②に加えてすでに許可されている「屋型号」「白傘袋」「毛氈鞍覆」「菊桐の紋章」「朱塗柄の傘」を俗に「上杉の七免許」と呼ぶ 8月頃帰国

  18. 1560年|永禄3年|31歳

    3月、越中国へ出兵(謙信は松倉城主椎名康胤を後援、増山城主神保長職は武田信玄に通じている、この対立の和睦を仲介したが和睦が破綻したため3/26出陣) 3/30、神保は富山城を捨て増山城へ入る 謙信は増山城に迫り、神保は恐れて逃亡、増山城を手に入れる 8月から越山 8/29春日山出陣、三国峠を越え9月上旬に上野へ侵入、明間・岩下・沼田の諸城を陥れる(憲政・謙信に呼応して箕輪城主長野業正、総社城主長尾景総が内応し沼田城主北条孫四郎、真田薩摩守を討ち取ったという、白井・総社・蓑匂の諸城も味方に付く)、厩橋に陣 9/5上杉憲政は沼田庄へ入る 9/27憲政は赤城神社を祈願所と定める 北条氏康は武蔵河越、続いて松山城へ入る 10月に入り、軍勢を下野方面へ向ける 上野では赤石城の那波氏などは抵抗、12月に赤石城陥落、上野はほぼ平定 厩橋で越年

  19. 1561年|永禄4年|32歳

    厩橋を出発、赤石を経て、2月下旬までに武蔵松山城へ入る(この頃までには参陣が遅れていた小山・那須・佐竹など下野・常陸の諸氏も到着していたものと思われる) 3月相模国へ入り、厚木郷で放火、酒匂に陣、3/11小田原城包囲 小山・佐竹らの意見を容れて小田原城の攻囲を解いて鎌倉へ入る 小山秀綱、宇都宮広綱・小田氏治が先陣を務め鎌倉へ 閏3月鶴岡八幡宮で憲政は山内上杉氏の名跡と関東管領職を謙信に譲る 6/21厩橋出発、6/28越後に帰国 信玄が善光寺平制圧の前線基地の海津城を完成、尼巌城・鞍骨城といった山城群に兵を入れて越後勢の南下に備えており、信濃に出陣 9/1以降に府中出発、9/3頃までに善光寺近辺に着陣、北国街道に沿って南下、犀川・千曲川にはさまれた「川中島」(八幡原)で9/10武田勢と激突(第四次川中島合戦)、善光寺平における武田方優勢は動かなかったため上杉方の事実上の敗戦 11月から武蔵松山城が北条氏の攻撃を受けており越山 11月上旬に三国峠を越えて上野へ 11/27生山で北条軍と戦い敗れる 厩橋城で越年

  20. 1562年|永禄5年|33歳

    2月厩橋から出発 西上野に進出してきた武田勢を安中で破る 北条氏に通じる赤井氏が拠る館林城を攻める、2/9館林城近くに布陣し攻撃開始、2/17城将の赤井文六が降伏、館林城を手に入れる、長尾景長を城に入れる 懸案であった下野唐沢山城への攻撃を定める 唐沢山城を包囲、佐野昌綱は開城して降伏 北条氏照が出陣してきたが上杉勢の退陣を聞き兵を返す 佐野から兵を引いた謙信は古河城にあった前関東管領上杉憲政と関白近衛前久を引き取る 3月帰国 7月越中へ出陣、事態収拾後帰国 9月越中で没落していた神保長職が再び動き出し、越中が乱れる、椎名康胤も苦境に陥り謙信出馬、敵方はそれぞれの要害を棄て増山城へ、神保は能登守護の畠山義綱を通じて降伏、10/6越後に帰国 10月信玄・氏康が出兵、上杉憲盛が拠る武蔵松山城を包囲 11/24府内を出発し越山、柏崎・小千谷を通って雪の三国峠を越え、12/16沼田城に入る、厩橋で越年

  21. 1563年|永禄6年|34歳

    2月上旬松山城救援に向かい松山城の東南の石戸に着陣 しかし城主憲盛は知らないまま、北条・武田連合軍の前に籠城軍は開城してしまう 松山城内に信玄・氏康がいることを好機とし一戦に及ぼうとするが夜陰にまぎれて出場し軍を退かれる 軍中の血気盛んな若者たちの暴発をおさえるのに苦心、その鬱憤を散ずるため岩付城から北に向かい武蔵騎西城の小田伊賀守を攻め攻略、一時離反していたその兄の忍城主成田下総守も降伏 続いて下野方面を転戦、離反した佐野・小山・結城の諸氏を降す 北に進み下野へ、小山秀綱の籠る祇園城を攻め小山は降伏、西に進み唐沢山城へ、城主佐野昌綱は降伏 4/26厩橋城に入る、4/28夜に沼田城に移り帰国 信玄が倉賀野城に迫り、11月から倉賀野城救援のため越山 まず浅貝に陣所 北条・武田軍が利根川を渡り横瀬成繁が守る上野金山城に向かって藤川に布陣 やがて藤川を引き払い、佐貫と足利の間あたりに陣、謙信は閏12/19厩橋に着陣 謙信は利根川を渡り和田城に迫る、陣中で年越し

  22. 1564年|永禄7年|35歳

    和田城はなかなか落ちず、里見義弘が国府台で北条氏康と戦い敗れるという知らせ、佐竹義昭・宇都宮広綱などを率いて東に進み小田氏治の籠る小田城へ 1/22小田城近くに陣所、1/29城を落とす 2/17下野佐野氏を攻撃、唐沢山城を落とす(佐野は降伏) 倉賀野城に圧迫を加える武田方を抑えるため再度和田城を攻めるが失敗 4月に謙信帰国 その後上野倉賀野城、武蔵岩付城がそれぞれ武田氏・北条氏に奪われる 信玄が飛騨国で内通した江馬時盛の求めに応じて信濃へ出兵 7/5上田長尾氏当主長尾政景急死 7/24出陣、7/29善光寺平まで進軍 8/3犀川を渡り川中島へ軍を進める、信玄は塩崎に陣 決戦には及ばず(第五次川中島合戦:塩崎の対陣) 飛騨国では江馬時盛が、謙信に通じている姉小路自綱・江馬輝盛らと対立、信玄が飛騨への後詰に動くことを警戒して川中島に滞陣、結果飛騨に侵入した武田勢は撤退、時盛は和睦 10月信玄帰陣、謙信は飯山城の普請後に10/1越後へ帰国

  23. 1565年|永禄8年|36歳

    関東からの救援依頼、2/24春日山を出陣、すぐに越山せず越後国内に留まりながら出馬機会を伺う 5/19将軍足利義輝が御所を三好義継・松永久通勢に急襲され討たれる 奈良の一乗院覚慶(足利義昭)は幕臣細川藤孝らの手引きで難をのがれ7/28甲賀和田城に入り、8/5謙信に義輝無念を散ずる協力要請する御内書を発給 謙信はこの時期義輝の喪に服すためか再び隠遁、10/16にようやく要請を受ける旨を返信 11/24春日山を出陣、越山

  24. 1566年|永禄9年|37歳

    常陸小田城に向かい圧力をかける、2/16小田氏治は降伏開城 館林まで兵を引き、再び南下、千葉胤富家臣原胤貞が守備していた下総臼井城を囲む(謙信は城の2kmほど南の台地:現・一夜城公園付近に本陣) 北条方の援軍が入った場内は士気が高く、堀一重まで追い込んだが3/23総攻撃でも落とせず3/24包囲を解く(敗戦)、4月帰国 関東の味方中に動揺、北条氏へ寝返るものが相次ぐ(小田、下野小山秀綱・宇都宮広綱・皆川俊宗、上野由良成繁、武蔵成田氏長、下総結城晴朝など)、関東における謙信の影響力低下は否めない 8月・閏8月に越山、沼田へ着陣、北条方に転じた由良成繁の居城、新田金山城まで軍勢を進めたが成果を上げられず帰国 箕輪城を拠点としていた長野氏業が、武田方の北の和田城・南の倉賀野城に対して必死に防備を固めていたが9/29城が陥落、長野氏業は討死、長野氏滅亡 10/11越山して関東に入り沼田に着陣 11/8大胡着陣、北条氏と対峙するべく11/9利根川に至るが敵勢は退陣、鬱憤を晴らすかのように西上野高山から武蔵深谷まで放火、蹂躙、11/19下野佐野へ入り陣、新田金山城由良氏の攻撃を企図 12月厩橋城代北条高広が小田原に内通という衝撃な知らせが届く、動揺、激怒 年末に館林城の長尾景長も叛いて北条氏とつながる 関東拠点の厩橋城に入れず下野佐野陣中で越年

  25. 1567年|永禄10年|38歳

    1/28佐竹義重が下野佐野陣に着陣、大いに喜ぶが、新田金山城への攻撃は実現せずに3月帰国(足利義昭から越・相・甲三和を遂げ将軍入洛について尽力するよう要請あり) 4月、北信濃へ信玄出兵、信玄は飯山方面を避けて妙高方面を北上、上杉方の野尻城を奪い、呼応した蘆名勢も越後侵入、神洞・雷両城を陥れる 謙信ただちに信濃に出兵、4/18野尻城奪回、越後菅名庄へ侵入した蘆名勢に対しては足軽を派遣、5月頃蹴散らす 8/7飯山城の普請を命ず、8/24信玄が塩崎まで進出、直接戦闘には至らず、10/1飯山城普請成就、府中へ帰陣 唐沢山城が佐野昌綱・北条氏により攻囲されており10月越山、10/24沼田城に入る 北条方が利根川を渡るため構築した赤岩の舟橋を破壊し北条方の退路を断ち10/27夜、北条氏政の陣所近くを急襲、攻城軍は敗走 降伏した佐野昌綱に同城を預け人質を伴って11/21帰国(下野佐野領維持は破綻)

  26. 1568年|永禄11年|39歳

    3/13武田氏と通じた本庄繁長が反旗 3/25越中国放生津に出陣した謙信が本庄の反乱を知り越後に帰国 本庄氏には出羽大宝寺氏ら隣国の領主たちが味方 本庄は越後府中に詰めていたが4/27船で下郡へ出奔、4/28自領の村上城に入り、4/29に「鮎川里館」に攻めかかり鮎川方は抵抗したが5/1に逃亡 5/4鮎川一族に本庄征伐の先駆けを命じ、鮎川盛長を遣わすことを報じる 柿崎景家・直江景綱らを下郡に派遣、下渡嶋城・庄巌城の普請を急がせる 7/10武田方は飯山城を攻撃、7/16信玄が越中勝興寺に金山へ長延寺実了を派遣したことを知らせる(一向宗をたきつけ蜂起させる) 8/10武田勢が長沼に出陣、8/12越中の一揆蜂起の報告 飯山に新発田・五十公野・吉江佐渡守の軍勢を移動、関山新地に上杉十郎方・山本寺・竹俣・山岸・下田衆を入れ、西浜方面への備えとして根知・不動山両城にも旗本を入れる、その結果謙信の手元には山吉・河田・栃尾衆のみしか残らず 織田信長を仲介として越甲一和の交渉が進行していたが交渉を打ち切る 下渡嶋城の守備を三潴左近大夫と鮎川盛長に任せる 8/22本庄方の攻撃にさらされた下渡嶋城を鮎川盛長らが放棄(本庄氏により奪回される) 10/20府中出立、10/21柏崎着陣、11/6岩船着、11/8(7?)本庄着陣、本庄城攻め開始 11/16上野沼田在番衆に、本庄と武田氏の交信を断つため人留めを命じた 北条氏照も沼田出陣を予定していたが、12/6信玄は信越国境ではなく今川領の駿河へ侵攻した(徳川家康と呼応して)、12/13駿府を占領(北条・武田の援軍は来ず) 陣中で越年

  27. 1569年|永禄12年|40歳

    3月末本庄は伊達・蘆名氏を頼み降伏、4/2府内へ帰る 6月初旬、武田氏と断交した北条氏康氏政父子と越相同盟 信玄が西上野へ入り9/9御嶽城、9/10鉢形城を攻撃、勝頼を大将とした一隊が滝山城を攻め、信玄は拝島に布陣、10/1信玄は小田原城に迫り10/4撤退、その帰途を北条氏照・氏邦らが三増峠に攻撃(10/6)、信玄はこれを破って甲斐へ:この間謙信は兵を出さず 謙信は越中松倉城主椎名康胤が武田に通じたため、越中へ 8/20境川を越え、8/22金山城(松倉城)へ押し詰め新城を乗っ取り、根小屋を悉く焼き払う、松倉城の康胤を追い詰め、しばらく越中に滞在、10月初めに神通川を越したがいつまでも在陣を続けるわけにいかず10/27夜帰国途中に信玄の動向を聞き春日山へ帰城 11/20雪中越山、沼田城に入り12月下野佐野に布陣、越年 信玄は12月再度駿府へ乱入、北条氏政と薩埵山で対峙、しきりに謙信の信濃出兵を懇願していたが、足利義昭・織田信長に越・甲和与交渉で出勢しないように制止されており出馬せず、北条氏は撤退、駿河は信玄の手中に落ちる

  28. 1570年|元亀元年|41歳

    下野佐野を攻め降伏させる(佐野昌綱が越相一和の協定に反発していたため) 太田三楽斎(資正)が謙信の書状を「ひろげ物」にしたため断交する 4/11北条方の証人三郎(後の上杉景虎)と対面し越後へ連れ帰る、4/18府内へ帰る、4/25春日山城で謙信姪と祝言、養子縁組が成立 8月信玄が伊豆に向かって攻め込み、黄瀬川に陣、氏政は謙信に出馬を要請、9/5謙信は府内を出発、関東へ向かう? 10月徳川家康が信玄と手切れ、謙信と同盟 信玄が上野の厩橋に向かっている情報、10/20越山して関東、ほどなく敵が退散、帰国 10月越山、武田勢が厩橋城へ迫ったためこれに対処、10/20武田勢を退散させてすぐに帰国 12/13自身の勤行の次第を記した願文を作り「御宝前」に捧げる

  29. 1571年|元亀2年|42歳

    3月神保長職からの要請で越中に出陣、3/17神通川を越え、3/19敵城を落とす、六渡寺の川が増水して渡れず帰国 10/3北条氏康死去、氏政は武田家との関係修復を模索(甲相一和) 11月越山、上野石倉城を攻略し、武田氏と利根川を挟んで対陣、決戦には至らずまもなく兵を徹して帰国 12月末に氏政が同盟を破棄(「越相一和」破綻)、再び武田・北条と敵対

  30. 1572年|元亀3年|43歳

    6/15五福山の戦いで山本寺定長ら上杉勢が一揆勢に敗走、上杉方の越中火宮城が一揆勢に開城、石動山城へ退去 8/6越中に向け出陣、8/18新庄表の山際に陣、一揆勢は富山城に籠る、9/17一揆勢は陣容を整える上杉勢を見て火宮城へ退く、この機を逃さず神通川を渡河して9/18滝山城を攻める、9/23城は陥落、破却、謙信はそのまま越年 10/4信玄は甲府出陣、西進 信長は足利義昭の意を請け「越甲和与」の斡旋を進めていたのに、信玄が義昭と結び自分に敵対することに驚愕、11/20信長は謙信と同盟(先に謙信と結んでいた徳川家康を加えて上杉・徳川・織田の対武田軍事同盟成立)

  31. 1573年|天正元年|44歳

    1月加賀・越中の一向一揆と和睦、椎名康胤からは許しを請われたため認める、富山城を接収して撤兵、門徒たちが再び富山城で蜂起、周囲に向城を築いて富山城を孤立させて帰国、4/21春日山へ 3/7足利義昭と信長が義絶、4/12西進途中の信玄が駒場で死去 5月越中で武田氏に呼応した松倉城主椎名康胤が蜂起したため対処 7/23北条勢が上野石倉城に押し寄せたため顕景を派遣 8月越中へ進軍、数日で帰国、10月越中西部まで支配することとなる

  32. 1574年|天正2年|45歳

    正月越山、西上野に出馬、2/5沼田へ着陣 3/10由良氏方の赤堀・善・山上・女渕ら各城を攻め落とし、桐生領深沢城も攻撃 桐生に在陣、小幡山城守・後藤勝元らに由良成繁が拠る新田金山城を攻めさせていたが攻略できず 北条氏政は新田金山城攻略に手間取る謙信の背後を衝くべく3/27出陣、利根川以南唯一の上杉方拠点の羽生城(城主:木戸忠朝)に北条氏繁軍が迫り、謙信は救援に向かう その直前佐竹の軍勢が祖母井へ着陣 謙信は藤阿久に陣、続いて大輪に本陣、羽生城との間に利根川 増水のため羽生城への兵糧搬入失敗、撤退 なんとか浅瀬をみつけて出ていき、氏政は本庄に布陣、敵わないと悟ったか本田方面へ引き上げる、見届けた謙信は今村に陣を置き、一旦越後に5月帰国 北条氏政が厩橋へ出兵を聞き、8月上旬に越山、沼田に着陣、北条氏との決戦には至らず 関宿城救援のため9月越山、下野小山に着陣、常陸の佐竹義重の賛同を得られず。 10/13由良成繁が築いた「横瀬地利」を攻め10/15陥落、撫で斬り 11/7利根川を渡り鉢形・忍・松山に放火し、新田金山に陣 足利・館林・新田領内を放火 11/20下野只木山、11/22沢尻、11/23小山に陣を進める 古河・栗橋・館林を押し通り三度利根川を越え武蔵各所(崎西・菖蒲・岩付など)に放火、閏11/19厩橋城に帰陣 佐竹義重は閏11/16北条氏政と単独講和を結ぶ、閏11/19関宿城開城、関宿城の梁田父子は水海城へ移ったが、足利藤政は自害 羽生領を維持できないと見定め城を破却、木戸忠朝は自刃、武蔵における最後の拠点を失う 羽生衆を上野膳城に差し置き由良氏の金山城への備えとして帰国 12/19剃髪の儀式、伝法灌頂の儀式、不識院謙信と名乗る

  33. 1575年|天正3年|46歳

    1/11甥の長尾喜平次顕景に上杉の名字と弾正少弼の官途、景勝の名乗りを与える 5/21長篠の戦いで武田勢に織田・徳川が大勝、信長は武田領への侵攻を要請したが国衆の寺島宗徳が謀反を起こしたため謙信は越中へ出陣、越中の問題を処理したあと加賀に入り一帯に放火 信長と対立した足利義昭は上杉・武田・北条の和融(越甲相三和)を働きかけたが、9月武田との和はよいが北条とは承服できない考えを示す(織田との武田挟撃を破棄) 越中から8/21春日山に帰陣 新田の由良氏に御覧田城を攻略され沼田衆が300人ほど討ち取られたことを受け9/8出陣、越山、由良成繁が築いた谷山城に攻め込み10/15陥落 猿窪城も落とすが新田金山城に退いた由良氏を攻めるが攻略に至らず。11月頃帰国 12月頃信長との同盟が事実上解消となる

  34. 1576年|天正4年|47歳

    5月越山、上野国内の各所を攻撃(赤石・新田・足利まで攻略、薙ぎ払い田畠も掘り返す) 下野渡良瀬より新田・足利へかかる用水を切り落とし、新田・館林・足利に至るまで水責めを企図、足利・新田間の金井宿の際に陣取り堰を4ヶ所切って落とす、5/29広沢へ移動、5/30桐生で田畠薙ぎ 足利義昭の幕府再興の知らせを受け5月中旬頃本願寺と講和 足利義昭の帰洛について毛利輝元からも協力要請、6/11小早川隆景に宛て上意を「御請」する旨を伝える(信長との断交決定) 8月越中へ出馬、栂尾城・増山城(籠っていたのは親織田派の神保一族?もしくはその旧臣?)を攻略し、9月初め越中平定 飛騨口に地利を二か所取り立て9/9さらに西を目指す 11月に能登へ侵攻、七尾城を囲む、陣中で越年(滞陣中に直江景綱死去か)

  35. 1577年|天正5年|48歳

    橋頭保である石動山城の守備を固めていったん越後へ帰国 関東味方中の要請にこたえて5月越山 5/14出陣、佐竹義重に出てくるよう要請したが動きがなく、まもなく帰国 閏7月再び能登へ侵攻、閏7/8魚津城、閏7月上旬氷見庄着陣 閏7/17天神河原着陣、七尾城内では伝染病流行 8/8柴田勝家大将の織田軍が北国へ進発、加賀へ乱入、添川・手取川を越え、小松村・本折村・阿多賀・富樫など焼き払う 9/11上杉軍が織田軍と一戦、大勝利(謙信は七尾城) 9/15親上杉派の遊佐続光らが上杉勢を城中へ手引き、長続連一族は討ち取られ、落城 9/17末森城落城(謙信は七尾?)、村上国清・齋藤朝信を入れる、9/20松任城に向かい、9/23松任城で陣揃え、夜に退却する織田軍を襲撃、手取川に追い落とす 9/26七尾城普請開始 12月春日山へ戻る

  36. 1578年|天正6年|49歳

    1/19関東出兵のため陣触れ 3/9正午頃春日山城内で倒れ(中風)、昏睡状態へ、3/13午後2時頃に逝去

日付表記について:日本でグレゴリオ暦が正式に採用された1873/1/1を超えた人物は、グレゴリオ暦での日付を記載しています

参考文献

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