豊臣秀長
室町時代 戦国・安土桃山時代/1540~1591年
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天下人となる兄・秀吉を支えた豊臣秀長。 常に秀吉の傍に仕え、四国・九州と遠征し、秀吉が天下人となるのを支え続けた足跡を追いました。
豊臣秀長の足跡
足跡地域
足跡地
- 北庄城跡
- 丸岡城
- 大垣城
- 加賀野井城跡
- 竹ヶ鼻城跡
- 中村
- 豊臣秀吉公生誕地
- 楽田城跡
- 犬山
- 長島
- 峯城跡
- 松ヶ島城跡
- 長島城跡
- 横山城跡
- 小谷城跡
- 長浜城
- 佐和山城跡
- 田上山
- 賤ケ岳
- 賤ケ岳古戦場
- 土山
- 坂本城跡
- 大山崎
- 山崎古戦場
- 福知山城跡
- 京都
- 大徳寺
- 真如堂
- 京都御所
- 聚楽第跡
- 北野天満宮
- 方広寺
- 木津
- 淀城跡
- 富田
- 大阪城
- 岸和田
- 千石堀城跡
- 畠中城跡
- 積善寺城跡
- 堺
- 大阪
- 竹田城跡
- 三木城跡
- 姫路城
- 長水城跡
- 出石城跡
- 水生城跡
- 芦屋城跡
- 明石
- 兵庫
- 尼崎
- 有馬温泉
- 大和郡山城跡
- 大和郡山
- 奈良
- 春日大社
- 興福寺
- 奈良奉行所跡
- 片岡城跡
- 猿沢池
- 東大寺
- 若草山
- 唐招提寺
- 一条院
- 三十八所神社
- 太田城跡
- 和歌山城
- 高野山
- 鳥取城跡
- 備中高松城跡
- 野殿
- 亀山城跡
- 土佐泊
- 木津城跡
- 一宮城跡
- 牛岐城跡
- 岩倉城跡
- 小倉
- 松尾城跡
- 高城跡
- 泰平寺
- 内城跡
年表
- 1540年|天文9年|1歳
3/2?、誕生(中々村?)(誕生年・場所は諸説あり) 貧しく、生活の糧を得るため各地を放浪説(遠江・三河・尾張・美濃)
- 1568年|永禄11年|29歳
10月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛:羽柴秀吉は六角戦参加、その後1573年まで尾張、美濃、京を往復し京畿の支配に当たる(秀長も同様?)
- 1570年|元亀元年|31歳
6月以降、秀吉は横山城、浅井長政と対峙(秀長も同様?)
- 1573年|天正元年|34歳
8月、小谷城の戦い:参加不明、(秀吉は小谷を与えられ1575に長浜城に移る) 8-9月、秀吉は暫定的に越前支配も担当
- 1574年|天正2年|35歳
7月、長島一向一揆に出陣
- 1576年|天正4年|37歳
秀吉が大坂本願寺攻め、加賀平定(1577?) 1月、八上城主、波多野秀治謀反
- 1577年|天正5年|38歳
10月、羽柴秀吉は松永久秀の信貴山城攻めに参加 10月、秀吉が信長から中国計略を命じられる 11月、秀吉が岩洲城を落とし、太田垣氏が籠る竹田城攻略成功、秀長が竹田城代になる 11/27、黒田孝高・竹中重治の活躍で福原城落城 12/3、上月城落城
- 1578年|天正6年|39歳
羽柴秀吉の中国計略に従い、各地を転戦 2月、三木城主の別所長治が謀反 3月、三木合戦(おそらく同行) 4月、上月城の戦い(高倉山に陣、6/21高倉山麓の戦いで敗北、7/5落城):参加不明 4月、阿閇城で黒田孝高勝利、野口城主の長井氏は秀吉に敗北降参 4/18、轟城主の垣屋豊継が宵田城の伊藤与左衛門尉を攻撃し勝利(水生古城の戦い) 6月、但馬に動揺、秀長を竹田城に入れる 7月、神吉城主の神吉氏・志方城主の櫛橋氏が秀吉に降参 7月、秀吉が三木城を見下ろす平井山に付城構築開始、その後多数構築 9/10、大村合戦 10月、有岡城主の荒木村重が謀反
- 1579年|天正7年|40歳
11月、有岡城落城
- 1580年|天正8年|41歳
1/11、秀吉は南の構を落とす、別所友之の鷹尾城と別所賀相の新城を攻略、鷹尾城に秀吉、新城に秀長入城、その後三木城開城 1/14、播磨三木城に近い山城構に入る 秀吉は長水城の宇野政頼・祐清攻略開始:秀長は竹田城で連携 閏3月、信長と本願寺和睦 4/26長水城戦開始、5/10落城:参加有力 5月、宮部継潤らと但馬侵攻、山名氏政が籠る出石城を落城、水生城の垣屋豊継を降伏させ、芦屋城の塩冶氏を因幡に放逐、但馬平定を完了(秀長は朝来・養父・気多の三郡支配?)
- 1581年|天正9年|42歳
6-7月、秀吉が小代一揆を滅亡:秀長は待機 7/5、藤堂高虎ら軍勢を率いて吹上浜に着陣(秀吉は太閤ヶ平に本陣) 10/25鳥取城開城、因幡平定
- 1582年|天正10年|43歳
3月、秀吉から岡山町支配に関わる掟を与えられる 3月、備中高松城の戦いに参陣 5月、水攻め開始 6/2、本能寺の変 6/3、凶報届く 6/5野殿→沼城→6/6姫路、6/9姫路→明石、6/10兵庫、6/11尼崎、6/12富田で織田信孝と合流、6/13秀長は天王寺方面の「山之手」に着陣、6/13大山崎、山崎の戦いで明智光秀に勝利 7月、清須会議(秀吉は山城・丹波・河内東部獲得) 9月、丹波支配を行う(拠点は福知山、一時的?) 10/15、京都大徳寺で織田信長仏事の警固? 12月、美濃で蜂起した織田信孝屈服(軍功あり?) 12/11、近江佐和山城に入る
- 1583年|天正11年|44歳
2月、北伊勢出陣、滝川一益攻め(軍功あり?) 2/28、伊勢峯城を攻撃 3月、受領名の美濃守を名乗るように 3/17、羽柴軍が賤ケ岳に陣、田上山に居陣、賤ケ嵩頂上にも要害を作る 4/11時点で織田信孝を岐阜城に攻囲、4/24織田信雄が美濃に攻め込む、岐阜開城、5/10?信孝切腹 4/20、大柿で中川清秀が大岩山で討たれたことを知り、垂井、関ケ原、藤川、伊吹山を経て木之本へ到着(秀長は木之本陣の守備を担当、近江田上山・賤ケ岳に陣取り柴田勝家勢と対峙) 4/21、賤ヶ岳の戦いで勝利 4/23北庄城攻囲、4/24落城(秀長は柴田方の丸岡城を落とす) 9月、姫路城に入り、播磨(加東・多可・飾東の三郡)・但馬(城崎郡・二方郡以外?)支配を任される おそくとも6/20以前に秀吉が大坂入り、8月?大坂城築城開始 11月、清水寺の寺領安堵をするなど、播磨支配を担当
- 1584年|天正12年|45歳
3月、秀吉の命により小牧・長久手の戦いに出陣 4月、筒井順慶らと松ヶ島城を落とし(4/11より前)、秀吉陣の楽田に到着 4/9、長久手で織田・徳川軍と秀吉軍が交戦し敗北、池田恒興・森長可が討ち死に 秀長はしばらく犬山付近に陣、加賀井城・竹鼻城を水攻めしていた秀吉のもとに向かう 6月に両城開城、秀吉は大坂城に帰還、6/8秀長は近江土山で宿所の普請 6/16、秀吉軍に味方した滝川一益が伊勢で織田・徳川軍に敗北 7月、秀長は美濃国池尻に陣 8月、尾張に向かい両軍の小競り合いが続く 9月和睦交渉→決裂、11/13和睦なる→帰陣?
- 1585年|天正13年|46歳
1/25より先、秀吉名代として伊勢長島城を訪れ、織田信雄の上洛交渉に当たる 2/22信雄大坂へ(秀長もいた可能性高い)、2/26信雄上洛 3月、秀吉の命により紀州征伐に出陣 3/21、岸和田に攻め、根来衆が籠る千石堀城を攻撃、勝利 畠中城・積善寺城・沢城を落とし、3/24に雑賀へ軍勢を進める 3/25太田城の攻防、3/28水攻め開始、4/21総攻撃、4/22勝利 前後して秀吉は仙石秀久らに有田・日高・牟婁に出陣を命じ、畠山貞政、湯川直春、堀内氏善に勝利、4/10には高野山も秀吉軍門に降っており紀州制圧成功 5月、紀伊・和泉の支配を任される、和歌山城を居城(3/21から築城開始) 5/27、病となった秀吉を見舞うため近江坂本城を訪れる 6月、秀吉の命により四国征伐に出陣 6/16、和泉・堺から四国へ(羽柴秀次は明石発)、両軍は阿波の土佐泊で合流 東条関之兵衛が籠る木津城を攻撃、7/5開城 宇喜多秀家軍と合流し長宗我部方の江村親俊・谷忠澄が守る一宮城へ向かう(秀次は長宗我部親吉が籠城する脇城へ) 7/19より先、阿波牛岐城・一宮城を攻める 7月、宇喜多勢に付き従った黒田孝高は喜岡城、植田城を落とし、阿波国へ、秀長らと合流、秀次とともに岩倉城を攻囲し降参させる 7/11、秀吉関白へ 伊予方面では7/14に毛利勢が丸山城を落とし、金子氏が籠る高尾城を攻囲、7/17落城、金子元宅は戦死、それから高峠城など諸城を落とし、金子城を守っていた金子元春は土佐に敗走 7/25、秀長は谷忠澄らに和睦交渉、8/21長宗我部元親を赦免、土佐一国を与えると帰陣 閏8月、大和の支配を任される(郡山城を本拠) 9/3、秀吉と秀長は大和国に入り、興福寺門跡らが出迎えた、大和郡山城に入る 9/6、春日・八幡見物、郡山に帰る 以降、大和・大坂・京都を頻繁に往復 9/30上洛、宿所:真如堂 10月従三位、参議兼近衛中将10/6・7参内、10/12京都より中坊へ、10/13郡山 10月、京都で秀吉に臣従する元親に同行 10月、奈良の商売を中止、郡山で行うよう命じる 10月、秀吉が島津氏に対して大友氏との交戦停止を求めた「九州停止令」 11/13上洛、11/26春日若宮御祭頭屋で見物、12/13大坂、12/22大坂、12/25郡山、12/29越年のため大坂 12/22上坂した小早川隆景・吉川元長を茶会に招く、12/25大和
- 1586年|天正14年|47歳
1/3郡山へ、1/5春日社参、1/17上洛、1/21参内、1/27郡山、2/8大坂から湯山、2/20湯山から郡山、3/13大坂(大坂普請) 4/5、上坂した大友宗麟と対面 6/16、上坂した上杉景勝を茶会に招く、6/22郡山、6/25大坂、6/27春日社参にわかに延引、7/3上洛、7/4在中坊、春日社参、7/22上洛 7月、島津氏が勝尾城の筑紫広門を攻撃、支城の鷹取城を落として降伏させる、その後筑前に侵攻、岩屋・宝満両城の守将・高橋紹運と子の立花統虎の籠る立花城を攻撃、岩屋城を落とし、紹運は自刃 8月、宝満城を落とし、立花城へ向かうが毛利氏の援軍が来ており一旦帰陣、統虎は撤退する島津氏を追撃、若杉城の攻略に成功、幽閉中の筑紫広門も脱出し勝尾城を奪還 8月?郡山城の普請を開始、8/26郡山へ帰る 8/28熊野から日高にかけて一揆が蜂起したので出陣 9月、豊臣姓を与えられる 9/23上洛、9/28在郡山 10月大和で京枡を用いる、10月に従三位・権中納言 10/6在中坊、10/7在大坂?、10/20在郡山、10/25在大坂、10/26上坂した徳川家康を宿所で接待、10/27秀吉と家康対面予定であったが、その夜に秀吉が宿所を訪れる、10/28大坂秀長亭にて振舞能あり、10/29在大坂 (10/2秀吉が島津義久へ停戦命令、10月島津氏豊後に侵攻、仙石秀久・長宗我部元親と戦う、大友氏重臣が次々と離反し島津氏へ寝返る) 11月正三位 11/5豊臣秀吉・徳川家康・織田信雄・豊臣秀次とともに参内、中納言へ、11/25秀吉太政大臣へ、11/28春日若宮御祭頭屋へ御出、12/8片岡の高野へ出る、12/25越年のため郡山出立し大坂へ (12月島津家久率いる軍勢が利光氏が籠る鶴ヶ城を攻撃、仙石秀久・長宗我部元親は大友吉統とともに救援、仙石氏らは返り討ちに遭い、元親子の長宗我部信親を失うだけでなく十河存保が討ち死になど散々な敗北、秀吉は戦場から敗走した秀久を改易)
- 1587年|天正15年|48歳
秀吉、バテレン追放令 1/6上洛?、1/11在郡山、1/22大政所/御上とともに春日社参 1月、秀吉の命により九州征伐に出陣(秀吉先陣として宇喜多秀家を進発) 2/10、秀長山崎から九州に出陣 3/1、秀吉京都を発ち、厳島神社参詣後に4月頃豊前小倉へ到着 秀吉が筑前から肥後を経て薩摩、秀長が豊後から日向を経て薩摩へ向かう作戦 秀長は先に進発していた毛利輝元、宇喜多秀家と合流、3月に松尾城を落とし、4月に高城を攻囲、兵糧攻め開始、島津軍と激闘し勝利 (秀吉は4月岩石城を攻略、秋月氏を降伏に追い込む、筑前・筑後・肥後と進軍し日向で島津軍を打ち破った秀長軍とともに薩摩へ) 以後、出水城の島津忠辰、宮野城の島津家久を降す、5/8に泰平寺に陣を構える秀吉に島津義久が和睦を提案、島津氏屈服 7/22、九州処置後九州から郡山へ、7/25春日社参、8/4在京、8/8従二位・大納言、8/20在郡山、9/7高野山に上る?、9/13上洛、京都宿所屋渡り(秀吉大坂城から聚楽第へ移徙)、10/2在京(北野大茶湯)、11/4在郡山、11末京都宿所で病、11/27奈良へ・上洛、12/5在京、快復
- 1588年|天正16年|49歳
北山方面で検地反対一揆、配下の吉川平介を鎮圧にあたらせる 1/6春日社参、在郡山、1/8秀保を養子として迎える、1/16大政所と春日社参、4/3大織冠郡山へ連座、4/14後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉 (5月秀吉が方広寺大仏殿の造立に着手、7月刀狩り) 5月金春大夫に命じて郡山の大織冠廟で猿楽興行を行わせる 5/20中坊へ、閏5/8秀吉と京都から郡山へ、閏5/13大坂から帰る、閏5/15春日社参、閏5/17在郡山、閏5/18郡山で能見物、6月東山大仏造立開始のため上洛、6/10仏士召し具し上洛 7/21在京、秀吉御成、7月上洛した毛利輝元を請待(7/晦日、輝元を秀長宿所へ、秀吉が御成、信雄、家康、秀次、秀家、上杉景勝らも)、8/22聚楽第で北条氏規と秀吉対面に陪席、8/26京都から帰る、8/29木津まで家康を迎える、9/朔、成身院に御座(奈良) 9月徳川家康、大友宗麟、毛利輝元が相前後して訪れ茶会を開催 9/4-7毛利輝元・小早川隆景・吉川広家を郡山に迎え春日社参・奈良見物に同道(9/4郡山城下秀長別邸と思われる大納言殿御多屋:御他屋?、9/5郡山城招待、御多屋で能興行、9/6郡山城で茶会、9/6奈良見物、猿沢の池、采女塚、興福寺、東大寺大仏、二月堂、若草山、三笠山、猿沢池ほとりで多聞院に隣接する成身院で振舞、興福寺五重塔、春日大社、若宮、夜に秀長宿所の中坊にまねかれ酒食、9/7朝中坊にまねかれ朝食・あいさつ、9/10には大坂でも会話、その後湯山へ10日ほど滞在) 9/10湯山へ、9/23在湯山、10/6在郡山、10/9成身院に逗留、10/10在成身院、11/8在京、11/26西発志院へ御出 12/5、材木調達を行っていた家臣の吉川平介が処刑される(過剰請求)
- 1589年|天正17年|50歳
1-5月、淀城普請に携わる 1/6夕郡山へ帰る、1/26春日社参、1/30淀へ普請のため御出、2/18在淀、4月奈良中に夫役を課す、5/12郡山へ帰る 6/12上洛、6/29春日社参、興福寺参詣、上洛、7/9中坊へ、上洛、8/27一条院にて延年を見物、9/22在中坊、9/24在中坊、9/29上洛 10末~11月上洛、湯山に向かう、10/29晩上洛、11/4湯山へ、11/26京都より下向、11/28煩いのため在京、12月京都で深刻な病、12/7在京?、12/26在京?煩い大事 (11月北条方の猪俣邦憲が鈴木重則の守る名胡桃城を奪取)
- 1590年|天正18年|51歳
1月体調を崩し京都で治療、1/4在京、1/5在京?、1/18在京? 3/1豊臣秀吉関東出陣につき対面、3/23在京、4月に郡山城で治療に専念、4/15京都より下向、中坊へ到着、4/16春日社三十八所屋参籠、4/17三十八所屋より退出、5/3春日社参、東大寺戒壇院にて熊野那智山の鰐口鋳造を見物 (4月豊臣秀次大将の軍勢は松田康長籠る山中城を落とし、韮山城・下田城・玉縄城・三崎城・江戸城も次々と落城、7/5北条氏直降伏) 7月北条氏に勝利を聞いて上洛(7/25関東から帰陣する秀吉を迎えるため上洛)、7/24上洛、7/25在京、9/25在郡山?、9/晦日東大寺八幡宮造営をみる 10月この頃から再び体調を崩す、10/18泰山府祭、都状を書く?、10/19在郡山(秀吉が見舞い)、11月島津義久が見舞いに、11/15京都より下向、11/16三十八所屋参籠、11/19在郡山、11/26在郡山、行歩難治上洛なし、12/10朝廷より見舞い、12/27大織冠が多武峰へ帰る
- 1591年|天正19年|52歳
1/22、大和郡山城で死亡
日付表記について:日本でグレゴリオ暦が正式に採用された1873/1/1を超えた人物は、グレゴリオ暦での日付を記載しています
参考文献
羽柴秀長と豊臣政権
渡邊大門 / ちくま新書
図説 豊臣秀長
河内将芳 / 戒光祥出版
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