平清盛
平安時代/1118~1181年
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武士として初めて太政大臣となり、平家政権を確立した平清盛。 保元・平治の乱で軍事貴族のトップに躍り出て、平家政権を確立。 治承三年の政変で院政を停止、福原へ遷都を行う。 しかし源氏を筆頭に各地で反乱発生、対応中に病で急死。 栄華を極めた清盛の足跡を追いました。
平清盛の足跡
年表
- 1118年|元永元年|1歳
1/18、誕生(誕生地は諸説:伊勢産品や六波羅館)
- 1124年|天治元年|7歳
伊勢斎王が初斎院に入るときの禊の行列に雑色として参加(この頃には六波羅館?)
- 1129年|大治4年|12歳
1/06、従五位下(貴族へ) 1/24、左兵衛佐
- 1135年|保延元年|18歳
父平忠盛の海賊追討賞の譲りで従四位下
- 1136年|保延2年|19歳
父の譲りで中務権大輔
- 1137年|保延3年|20歳
父の熊野本宮造宮賞の譲りで肥後守
- 1138年|保延4年|21歳
最初の妻、右近将監高階基章の娘との間に嫡子平重盛誕生
- 1140年|保延6年|23歳
崇徳天皇の中宮聖子の行啓の恩賞で従四位上
- 1146年|久安2年|29歳
鳥羽院皇后得子の年給で正四位下
- 1147年|久安3年|30歳
6/15、祇園社に宿願を果たすため田楽を奉納する際に郎等と神人の間に乱闘事件が発生 6/28、祇園社本寺の延暦寺が平忠盛・清盛父子に流罪を要求(強訴)、鳥羽院の庇護で罰金刑に済む 後妻平時子との間に平宗盛誕生
- 1149年|久安5年|32歳
落雷で炎上した高野山の根本大塔再建のため、父の代官として登山
- 1151年|仁平元年|34歳
安芸守
- 1152年|仁平2年|35歳
3月以前のある時期から鳥羽院庁の四位別当になる
- 1153年|仁平3年|36歳
1/15、平忠盛死去、2か月の喪に服する
- 1155年|久寿2年|38歳
7月、近衛天皇崩御
- 1156年|保元元年|39歳
7/2、鳥羽院臨終 7月、鳥羽院近臣・後白河陣営が崇徳・藤原頼長陣営を抑圧・挑発 保元の乱開始 7/10夜、里内裏高松殿に招集される 7/11未明、二条通りから白河殿へ向かう、源為義一族・平忠正らと白河殿に結集、白河北殿に立てこもる崇徳方を午前八時頃に源義朝が放火戦術で勝利 7/11、播磨守に 10/13時点で後院別当に在職
- 1157年|保元2年|40歳
10月、内裏の仁寿殿造営竣功
- 1158年|保元3年|41歳
九州の謀反人光直追討のため、腹心の郎等筑後守平家貞を鎮圧に差し向ける 二条天皇即位 8/10、大宰大弐になる(現地には行かず)
- 1159年|平治元年|42歳
2/13、白河北殿跡地に建立された清盛建立の白河の千体新阿弥陀堂落慶供養会のリハーサル 2/22、本番は後白河の臨幸を得て行われる 3月、後院の年預に就任 平治の乱勃発 熊野詣中の12/9に二条親政派や源義朝と組んだ藤原信頼が挙兵、後白河の院御所三条殿を軍馬が急襲、御所に放火、二条天皇と後白河上皇を内裏などに幽閉、信西は宇治田原まで逃げたが自殺/殺害 挙兵の報を聞いた清盛は、熊野紀州路から引き返して六波羅へ入る 信頼に服従の意を示して油断させ、藤原経宗・惟方を信頼から離反させ、天皇を内裏から脱出させて六波羅の自亭へ迎え、上皇も仁和寺に退避、賊軍に転落した源義朝軍から離反者続出 藤原信頼らを謀反人として追討、12/26の大内裏・六波羅合戦で勝利、信頼は六条河原で斬首、源義朝は知多半島に落ち延びたが家人に殺され、源頼朝は翌年捕らわれ伊豆へ流される 12/29、二条天皇が美福門院の八条室町第に行幸の際に甲冑を着て輿の前後に供奉
- 1160年|永暦元年|43歳
2月、禁中で藤原経宗、藤原惟方らを捉え、解官・流罪へ 4/1、初斎院司除目にあたり伝奏として公卿たちの所望を二条天皇に取り次ぐ 6月、二条親政派の中心的武力美濃源氏の源光保・源光宗父子が謀反の疑いで配流、途中で殺害(対抗する軍事貴族が消滅) 6/20、正三位(公卿へ) 8/5厳島詣、8/11参議、9/2右衛門督、10/23後白河院の熊野御幸へ供す、12/15八十嶋祭挙行
- 1161年|応保元年|44歳
1/23、検非違使別当 7月頃に宇佐八幡宮へ参拝 9/13、権中納言 9/30、二条天皇から蔵人頭藤原忠親に、五節沙汰遅延の負担させるべき人物の人選を清盛と相談するよう指示が出る
- 1162年|応保2年|45歳
3/7、流人藤原経宗を召し返す件で蔵人重方が天皇の仰せを奉じて参院後に清盛邸へ向かっている 4/7、皇太后宮職の権大夫に就く 8/24、二条天皇の稲荷社・祇園社行幸の行事官を務める 9/20、従二位 10/3、勅授が許される
- 1163年|長寛元年|46歳
2/27、祈年穀奉幣にあたり石清水八幡宮に勅使として赴く
- 1164年|長寛2年|47歳
9月、一門の繁栄を祈願して厳島神社に今日平家納経と呼ばれる装飾経を寄進、社殿の大規模化開始
- 1165年|永万元年|48歳
2/4、六波羅の自宅で神祇伯の顕広王と談笑 7月、二条天皇崩御 8/17権大納言、12/25親王家の勅別当に補される
- 1166年|仁安元年|49歳
6/6、正二位へ 10/10、憲仁立太子式の除目で春宮大夫に任ぜられる 11/11、内大臣に 11/16、内大臣拝賀で六波羅から土御門東洞院亭で後白河院と対面、次いで東宮憲仁に慶びを申し、大内裏八省院で六条天皇の御前へ召され、中宮育子に喜びを申して摂政基房亭に向かって六波羅に帰る
- 1167年|仁安2年|50歳
1/20、皇太子憲仁が法住寺殿に朝覲行啓に際して参内 2/11、従一位太政大臣へ 2/25、厳島神社詣 5/10、平重盛に対し東山・東海・山陽・南海四道の賊徒追討権を付与する宣旨 5/17、太政大臣辞任
- 1168年|仁安3年|51歳
2/2、寸白の病に倒れる 2/11、天台座主明雲を戒師として出家 2/15、熊野から帰還した後白河が六波羅亭に直行 2/17、危急の報 2/19、六条天皇が譲位、憲仁が践祚して高倉天皇へ 3/13時点では快方に向かっておらず 6/16には政界に復帰している 11月、厳島神社社殿の大規模化の完成
- 1169年|嘉応元年|52歳
春の頃、六波羅から摂津福原へ退隠、六波羅泉殿は重盛に明け渡す(以後入京時は妻時子のいる西八条殿) 3/13、後白河の高野山参詣にあたり、六条面に桟敷を構え見送る 3/21、千僧供養開始(福原に来てから年二回開催:3月/10月) 9/13西八条殿、10/7平時忠・平宗盛を従えて内裏へ、朝餉の間で高倉天皇に対面 12/22、延暦寺衆徒・日吉神人が怒り下山し藤原成親の配流要求し強訴
- 1170年|嘉応2年|53歳
強訴対応のため1/17に上洛 4/19、法王が奈良に御幸、清盛は平重盛・平教盛を従えて宇治で合流 4/20、東大寺で法王と清盛の同時受戒 9月、宋船の大和田来航(後白河も宋人謁見のため大和田に下向)
- 1171年|承安元年|54歳
7/20、平時子重病のため上洛(7/26頃まで?) 10/23、後白河・建春門院が福原御幸、船遊びなど(11/1帰京) 12/2、平徳子の入内定
- 1172年|承安2年|55歳
3/15、福原亭に後白河を迎え、3日かけて千僧供養の儀式 9月、宋の明州判史から供物 10/15、和田浜で千僧供養
- 1173年|承安3年|56歳
経の島の築造(開始) 3月宋へ返牒、公的な外交関係締結(日宋貿易)、3/14千僧供養
- 1174年|承安4年|57歳
2/15、法住寺殿に参る 3月、法王や建春門院の厳島御幸に合流 10月、厳島で万灯会・千僧供養
- 1175年|安元元年|58歳
10/13、千僧供養
- 1176年|安元2年|59歳
3/4-6、後白河50歳の賀のため在洛、法住寺殿で賀宴 4/27、後白河の延暦寺御幸に従う 6/30、建春門院の病のため法住寺殿に参入 7/8、建春門院死亡
- 1177年|治承元年|60歳
3/15千僧供養、4/13延暦寺衆徒が強訴、4/28安元の大火(太郎焼亡)、5/25強訴解決のため上洛 鹿ケ谷事件勃発 5/28、後白河が延暦寺攻撃を命令、叡山攻撃が避けられなくなった 6/1、西光逮捕、藤原成親・藤原成経が西八条殿に禁固、西光斬首、成親備前に配流、7/9成親殺害
- 1178年|治承2年|61歳
6/2、徳子懐妊により上洛 6/3、院へ参上 9/2?、徳子産所の六波羅泉殿へ 11/12、言仁誕生で泣く(11/17に福原へ) 11/26、言仁を皇太子にする要請のため上洛 12/15、六波羅泉殿で立太子の儀
- 1179年|治承3年|62歳
1/11、院、内裏に参り、高倉天皇・中宮徳子・東宮言仁と対面 6/8、藤原忠雅を福原清盛邸で歓迎 6/9未明、唐船に忠雅を乗せ和田岬を巡って日の出を迎え、経の島から二十町を隔てた小馬林に到着、その後厳島へ 6/17、娘の白川殿盛子死去(清盛は厳島詣中) 7/29、平重盛死亡 重盛の越前国を召し上げた件・白川殿の荘園に関する措置・法王と関白藤原基房が共謀して国政を乱したことに対して治承三年政変を起こす 11/14(-20)、武士数千騎を率いて上洛、西八条殿に入る 11/15、藤原基房関白解雇 11/16、院政を停止 11/17、反対派を大量解官 11/18、後白河側近を配流・畿外追報 11/20、後白河を鳥羽殿へ幽閉、福原へ帰る(帰途に院の近習を私刑?) 12/9、上洛 12/16、西八条邸に東宮を迎える
- 1180年|治承4年|63歳
1/19、平時子二禁を患ったため上洛 1/20、東宮の真菜・着袴の儀 1/22、福原へ 2月、経の島改修に関する解状提出 2/21、高倉天皇譲位、安徳の皇位継承 3/21、高倉上皇が福原へ、高倉は陸路で播磨へ、清盛は宋船で 3/22、高砂の泊から出航 3/26、宮島に到着 3/27、厳島神社に参籠 4/5、福原へ戻る 4/22、安徳天皇即位 5/10、上洛(以仁王の企てを聞き処置を決定するため?平知盛重病の見舞い?) 5/11、福原へ 5/15、以仁王の挙兵が露見、配流が決定したが園城寺に逃げ込む 5/21に園城寺攻撃が決定したが夜半に以仁王は源頼政と合流し5/26未明脱出、南都に向かう途中平家軍との戦闘で源頼政とともに討ち取られる 5/26-6/2、以仁王の乱への対応と福原遷都に向けて上洛 6/2、安徳天皇以下福原へ(鳥羽から淀川、摂津国大物の藤原邦綱別荘に宿泊、翌日福原到着)、福原遷都、その後和田京建設計画は頓挫、福原整備へ路線変更 8/12、大嘗会延期決定 8/17、源頼朝が伊豆で挙兵、ほぼ同時に熊野別当湛増が紀伊で、甲斐で武田信義、東信濃で源義仲が挙兵 8/19、源通親を連れて厳島・宇佐へ参詣 8/23、石橋山の戦い 9月には筑紫でも反逆者出現 9月下旬に高倉院の厳島御幸に随行し参詣 10/6、厳島・宇佐宮へ(一か月程) 10月、近江でも反乱因子 10/20、富士川の戦い、延暦寺衆徒の蜂起 11月、新内裏完成 11/5、美濃源氏を味方にする案を蹴り追討令、敵に回す、平宗盛が都帰りにつき清盛に諫言して口論に 11/11、安徳が新内裏に行幸 11/12、都帰りに同意 11/20、近江源氏の蜂起 11/23、都帰り開始 11/26、平安京へ都帰り完了 11/29、上京、以後在京 12/1、伊賀の平田入道家継が甲賀の柏木義兼らを攻め戦果をあげる 12/2、平知盛・平資盛以下を大将軍とする追討軍進発 12/3、近江反乱軍の一部を迷走、延暦寺大衆が分裂 12/10、平家軍と延暦寺悪僧が山科辺りで交戦 12/11、園城寺焼き討ち 12/13、馬淵城を落とし、山本義経の本拠山本城に迫る、年内に近江をほぼ制圧 12/25、平重衡が興福寺へ進発 12/28、泉木津で合戦、木津川対岸に攻め渡り奈良坂・般若寺坂の両道を通り南都へ侵入、興福寺・東大寺の主要な堂舎が炎上、南都壊滅 年末から正月にかけて筑紫で菊池氏が反平家の兵を挙げる
- 1181年|養和元年|64歳
1/9、美濃国境近くの結戸で凶徒を斬り、中旬に美濃に攻め入り(1/14高倉死亡、1/17後白河院政再開) 1/20、美濃源氏源光長の蒲倉城を落とす(近江・美濃の平定) 1/27、清盛・宗盛は九条大路の東端から鴨川を渡った対岸にある宗盛堂に居住 九条河原口の平盛国宅で2/22から頭風の気、2/24発熱、閏2/1危機的な状態、閏2/4死去
日付表記について:日本でグレゴリオ暦が正式に採用された1873/1/1を超えた人物は、グレゴリオ暦での日付を記載しています
参考文献
増補 平清盛 福原の夢
髙橋昌明 / 岩波現代文庫
平清盛の闘い 幻の中世国家
元木泰雄 / 角川文庫
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