楠木正成
鎌倉時代/1294~1336年
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鎌倉幕府の倒幕に貢献した楠木正成。 武略に優れた正成の足跡を追いました。
楠木正成の足跡
年表
- 1294年|永仁2年|1歳
河内千早・赤坂で誕生(誕生年は一説)
- 1331年|元弘元年|38歳
2-9月、和泉国臨川寺領若松荘を不法に占拠、和泉国守護代が当地を接収する 8月、後醍醐天皇の倒幕計画が露顕、六波羅探題の追及を受けることとなり笠置山山頂の笠置寺を行宮とし籠城開始 9/11、正成は赤坂城で挙兵 9/28、笠置山陥落、後醍醐は捕らえられて六波羅へ 10/21、赤坂城落城、正成は城を脱出し行方をくらます
- 1332年|元弘2年|39歳
3月、後醍醐天皇は隠岐へ配流 12月、正成が紀伊で挙兵、同時期に護良親王が吉野で挙兵 正成は紀伊の隅田荘で幕府方の隅田党を破ると紀見峠を越えて河内へ入り、幕府に接収されていた赤坂城(湯浅定仏らが籠る)を奪還
- 1333年|元弘3年|40歳
1/5、河内の甲斐荘安満見で幕府方(井上入道ら)と合戦し勝利 1/14-16、河内守護所一帯や和泉の堺などで幕府方を圧倒、幕府はそれ以上の北進を食い止めるべく六波羅の軍勢を摂津の四天王寺に派遣して城郭を構えさせる 1/14、河内国で河内守護代、丹下・池尻・花田地頭俣野、和泉国守護、同国御家人田代・品川・成田を破る 1/15、和泉国御家人陶器左衛門尉・中田地頭・橘上地頭代を破る 1/16、幕府軍と堺で合戦し勝利 1/19、正成は護良親王側近の四条隆貞を大将に四天王寺へ攻め寄せ、六波羅軍を淀川最下流部の渡辺まで追い落とす大勝利(天王寺合戦) 1/22、千早・赤坂へ帰還、千早城へ入る 幕府軍は護良親王の吉野、正成の千早城、正成方の摂津武士平野将監入道が籠る赤坂城へ軍勢を進める 2/22、北条一門の阿曾治時が千早城を攻めるが正成勝利 2/27、千早城一帯に総攻撃がかけられ、赤坂城陥落、平野は幕府へ投降 閏2/1、吉野陥落、護良親王は紀伊へ落ち延びる 千早城に全ての軍勢が結集するが千早城は落ちず 閏2/24、後醍醐が隠岐を脱出、伯耆武士の名和長年の協力のもと、船上山に立てこもり挙兵、倒幕の綸旨を各地に発する 千早城では正成が連勝 3/5、千早城を攻める幕府軍を撃退 4月、護良親王の倒幕の令旨が届けられ幕府軍から離反する者も現れ始める 5/7、足利尊氏が六波羅探題を攻め滅ぼす 5/10、千早城では立場を失った幕府軍が包囲網を解き、正成籠城戦は勝利で終わる(楠木合戦) 5/21、新田義貞が鎌倉を攻め、5/22鎌倉幕府滅亡 6月、建武の新政開始、上洛 後醍醐内裏は二条富小路殿、その一帯に住んでいた 建武の新政開始以降、列島各地で政権に対する反乱が頻発
- 1334年|建武元年|41歳
2月、従五位下へ、河内・摂津二ヶ国の国司・守護に補任 9/22、後醍醐の石清水八幡宮護国寺供養に供奉 9/24、後醍醐の東寺塔供養において南大門警固 10月、紀伊国の飯盛城の北条一族(佐々目顕法・六十谷定尚ら)の反乱に対処
- 1335年|建武2年|42歳
4/4、京都毘沙門堂に立てこもる北条高時一族の高安を討伐 6/22、関東申次の西園寺公宗を後醍醐暗殺を企てた罪で逮捕(武者所の正成と高師直が) 7月、北条時行が信濃で挙兵し鎌倉占領(中先代の乱) 8月、天皇に無断で足利尊氏が鎌倉へ攻め入り時行から鎌倉奪還、直ちに京都に帰るよう命令されるが応じず、独断で恩賞を与えたりしたため尊氏は謀反人と認定 追討に新田義貞が送られたが、12月の箱根・竹ノ下の戦いで尊氏勝利、尊氏は京都を目指す 尊氏は瀬田・宇治・淀の大渡に軍勢展開、後醍醐は千種・結城・名和を瀬田、新田を淀、正成を宇治に配置
- 1336年|延元元年|43歳
1月、京都で正成・千種忠顕・結城親光・名和長年・新田義貞VS足利尊氏勢で一進一退の攻防 1/7、正成は畠山高国の軍勢と合戦 1/8、尊氏が八幡へ 1/9、西国からやってきた赤松円心・細川定禅が大渡へ 大渡・山崎の合戦で敗北した新田義貞は大渡を棄てて京都へ退却、後醍醐は比叡山に逃れ、1/10に京都は尊氏軍に占拠 1/27、奥州から西上した北畠顕家の軍勢を加えた官軍が義貞を総大将として京都へ総攻撃 入京した正成は1/27に糺の森付近で上杉重能、畠山国清、斯波高経らと対峙、楯でバリケード作戦(動く城郭)で足利方を五条河原に退却させる 1/30、一旦京都から退き足利軍を招き入れ、自分たちが死んだと油断させて急襲、尊氏軍は京都から丹波・播磨を経て兵庫へ 2/10、再び入京しようとする尊氏軍を正成が摂津西宮浜で撃破し九州へと追いやる 2/12、尊氏は兵庫から九州へ 後醍醐天皇に「新田義貞を討ち、足利尊氏を呼び戻して和睦すること、その使者は自分が務めること」を提案、却下される(諸説あり) 尊氏の倒幕功績と武士の人望、それに対する義貞及び天皇の人徳のなさ、自身の武略の妥当性を涙ながらに訴え諫言(諸説あり) 3月、尊氏は筑前多々良浜で後醍醐方の肥後の菊池武敏らを破り九州勢力を味方につけて4月に東上開始 5月頃、後醍醐から新田義貞と協力して兵庫で尊氏を迎撃するよう命じられる 正成は「勢いづいた足利尊氏の大軍に対してこちらは疲弊しきった小勢で戦況は不利なこと、新田義貞を呼び戻し後醍醐天皇を比叡山に退避させ、自身は河内に下り畿内の兵を集めて淀川尻を封鎖して京都に入った尊氏軍を兵糧攻めにしながら、義貞と自分とで挟撃して殲滅する」作戦を提案、却下(諸説あり) これまでこちらが不利な状況でも勝利したのは正成たちの武略が優れていたからではなく天皇の運によるものであり、何らかの策をめぐらす必要はないと言われ、忠義に厚い自分を大軍にぶつけるのは討ち死にせよという命令、義を重んじ死を恐れぬのは忠臣勇士の望むところと出陣した(諸説あり) 尼崎で天皇が敗れること、倒幕戦争では皆が天皇に志を抱いていたが今回は国中の誰もが天皇に背を向けていること、これ以上自分が生きながらえるのは無駄なことであり戦場で命を落とす覚悟であるといったことを京都に届けた(諸説あり) 5/25、兵庫で義貞と合流、湊川西に布陣、和田岬に陣を取った義貞と尊氏軍を待ち構える 尊氏・細川定禅は海上、足利直義は大手の西国街道、山手は斯波高経、海沿いの浜手は少弐頼尚 午前9時頃戦闘開始、新田義貞軍が少弐・細川勢に撃破され京都へ敗走 湊川に残された正成は大手の直義勢と激しく争ったが、義貞を負かした細川勢が直義に合流したことで不利な状況へ 午後5時頃に弟の楠木正氏ら一族郎等合わせた50人余りと戦場近くの小屋に火をかけて自害
日付表記について:日本でグレゴリオ暦が正式に採用された1873/1/1を超えた人物は、グレゴリオ暦での日付を記載しています
参考文献
楠木正成・正行・正儀 南北朝三代の戦い
生駒孝臣 / 星海社新書
楠木正成 知られざる実像に迫る
生駒孝臣・尾谷雅比古 / 批評社
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