伊藤博文

江戸時代 明治・大正時代/1841~1909年

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近代日本を確立した元老、伊藤博文。 生涯に渡って活躍し続けた博文の足跡を追いました。

伊藤博文の足跡

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足跡地域

足跡地

年表

  1. 1841年|天保12年|1歳

    10/16、周防国熊毛郡束荷村の林家に誕生

  2. 1846年|弘化3年|6歳

    父十蔵が破産、束荷村の母琴の実家秋山家に預けられる(束荷村の手習師匠、三隈勘三郎に字を習う)

  3. 1849年|嘉永2年|9歳

    萩に出た父が足軽伊藤直右衛門に仕え信頼を得、萩に迎えられる

  4. 1851年|嘉永4年|11歳

    1851-1852頃、久保五郎左衛門の塾に通う(吉田稔麿と同じ塾生)

  5. 1853年|嘉永6年|13歳

    アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが浦賀沖に来航

  6. 1854年|安政元年|14歳

    1/29、父が伊藤直右衛門の養子となり、伊藤直右衛門家に移る(農民から足軽へ上昇)

  7. 1856年|安政3年|16歳

    9月、手付として相模国宮田御備場出役を命じられ、宮田に赴任、駐屯

  8. 1857年|安政4年|17歳

    2月、作事吟味役の来原良蔵の手付となる(読書を教わる) 1年交代で秋に勤番が終わり、萩へ、来原が吉田松陰へ紹介状、松下村塾入門

  9. 1858年|安政5年|18歳

    8月-11月に長州藩から選ばれた6人の青年の一人として京都に派遣(山県有朋も) 京都から戻ると来原良蔵に率いられて、手付として長崎へ、練兵や砲術を学ぶ

  10. 1859年|安政6年|19歳

    6月まで長崎 9月、伊藤は来原の義兄、木戸孝允の手付となり、萩を出発 11月から木戸と共に江戸の長州藩邸に住む(江戸で井上馨と出会う) 11/21吉田松陰処刑、11/23木戸と共に遺体受け取りに小塚原の回向院に向かい、橋本左内の墓の左方に埋葬

  11. 1862年|文久2年|22歳

    9/22、来原良蔵が江戸藩邸で自刃(遺髪を萩へ届ける) この年、高杉が結成したばかりの尊王攘夷の結社御楯組に加わる

  12. 1863年|文久3年|23歳

    2/1、高杉晋作らの品川御殿山のイギリス公使館焼き討ち計画に参加 2/9、九段坂で国学者の塙次郎を山尾庸三と二人で斬殺 5/7、準士雇となる 5/30、井上馨にイギリス密航の同道を約束 6月まで江戸(江戸滞在中、2回木戸に従って京都) 6/27、イギリス船でイギリスへ密航(井上馨らと) 数日で上海、ペガサス号で井上とロンドンへ ジャルディン・マセソン商会の「チェルスマン号」で上海へ その後ペガサス号でロンドンへ 11/4にロンドン着、開国論者に変説、井上勝・遠藤謹助とロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの化学教授アレキサンダー・ウィリアムソンの家に寄宿 ロンドン大学で講義を受ける、博物館・美術館、海軍設備・造船所・工場見学 (8月18日の政変で三条実美ら攘夷派公卿7人が京都を追われ長州へ:七卿落ち)

  13. 1864年|元治元年|24歳

    長州藩が米国商船を下関で砲撃など攘夷運動していることを聞き、止めるために4月に井上とロンドンを出発、7/13頃に横浜着 (7/8池田屋事件で吉田稔麿らが殺害) イギリス公使オールコックに交渉、7/21に軍艦バロッサ号に乗り横浜発、7/26国東半島の北方の姫島に送ってもらう 7/27夕に山口着、7/28に藩の政事堂に呼び出され、攘夷を止めて英米仏蘭の四公使に通告するよう建言、藩は将軍・天皇の命で行動しており天皇を動かすため、四か国の軍事行動を三か月遅らせてほしいという回答、この後1日萩に帰る(妻すみと初めて会う)、8/3「外国艦隊との応接」を命じられる 8/6に姫島に戻り口頭で伝える (8/20禁門の変:来島又兵衛・入江九一戦死、久坂玄瑞・真木和泉・寺島忠三郎自刃) その後長州の朝敵認定 9/5四国連合艦隊が馬関砲撃、9/6激しい戦闘、連合艦隊上陸 9/7、高杉晋作を講和使、伊藤・井上馨を通訳に講和使節団任命、第二回目の談判時は高杉と伊藤は講和に反対する激情型攘夷派から命を狙われ有帆村の農家に身を隠す 9/8、旗艦ユーリアラス号で講和交渉、和議をまとめる 9/14、四国連合艦隊と長州藩の間に講和条約結ばれる 9/27、馬関でアーネストサトウを食事でもてなす その後長州藩は横浜に使節を派遣(10/10横浜着)、四か国の代表を歴訪、伊藤も随行 10/25、井上馨が俗論派の襲撃に遭い瀕死、伊藤が山口へ訪問、井上に懇請されて馬関へ (11-12月、第一次長州征伐)

  14. 1865年|慶応元年|25歳

    1/12、高杉晋作が長府功山寺で奇兵隊などをあてに挙兵、伊藤は力士隊を率いてすぐに参加 1/13馬関に入り、藩の会所を占領 2/1、萩へ向かう途中の秋吉台近くの絵堂・大田などで俗論派の部隊を破る、萩城下に入り俗論派を一掃、2月末までに俗論派の役人は全て免職、3月初めに停戦成立、藩是を武備恭順にまとめる 時期不明:高杉と長崎へイギリス商人トーマス・グラバーを訪ねる、イギリス留学を企てるが函館駐在イギリス領事にまず国内課題に取り組むべきと諭され断念 5/20木戸が出石より馬関に帰り、5/21伊藤は木戸訪問 木戸の命で岩国へ赴き、藩主吉川経幹に会い山口出府を促す 9/3、井上馨と長崎へ武器購入のため出張、9月末頃までに武器・商船・砲艦購入

  15. 1866年|慶応2年|26歳

    時期不明、上海に渡り汽船二隻を購入 7/18、長州再征の戦い(第二次長州征伐/四境戦争(大島口・芸州口・石州口・小倉口))開始、伊藤は石州口に出兵、幕府側は各地で敗北、8/29徳川家茂死去、征長停止 馬関に住んでおり、年末から翌年正月にかけて萩へ行き、母琴子の看病

  16. 1867年|慶応3年|27歳

    4/13準士雇→士雇に昇進、準士身分に、4/22京摂方面の情報偵察のため京都出張を命じられる この頃前年春に結婚した梅子と前年末に生まれた貞子と馬関に住んでいた 5/1馬関を出発、5/16京都、薩摩藩邸に潜伏していた品川弥二郎のところに寄宿(5/17高杉死去) 中岡慎太郎、大久保利通、黒田清隆らと会い、6/1京都を去り山口へ 山口から萩へ、4-5日滞在して母を見舞い、馬関に戻る 8/19、木戸とともに外国情勢偵察のため長崎出張を命じられる 9/4山口を出発、長崎で坂本龍馬らと会う、アーネストサトウとも会見 9/30木戸は長州藩へ、伊藤は京都へ、10/10イギリス軍艦乗り込みを命じる辞令が出る(幕府の方策やフランスの動きを偵察) 10/23に長崎へ出発するまでに坂本龍馬と会合、土佐藩・熊本藩の情報を得る 長崎でグラバー商会と交渉、10/30汽船一隻を借り入れる、長崎で芳川顕正から英語講読の講習を受ける (11/9大政奉還、11/10朝廷受理) 長崎からイギリス軍艦で12月末に兵庫着(長崎から朝鮮ケーロッパという島、下関、兵庫) 米人医師ヴェデルを伴って長州へ戻る

  17. 1868年|明治元年|28歳

    (1/3王政復古の大号令、1/27-28鳥羽伏見の戦いで新政府軍の圧勝) 2/3イギリス軍艦に便乗、2/5兵庫到着 2/4に神戸事件勃発(神戸三宮神社付近で岡山藩家老日置帯刀の部隊をフランス人水兵が横切ろうとし、瀧善三郎が槍で突く、銃撃戦となり、イギリス公使ハリー・パークスが激怒、神戸開港を祝おうと集結していた各国艦隊に緊急事態を通達、神戸中心部を軍事占拠) 伊藤はパークス駐日イギリス公使へ直行、意見を聞き大坂へ、外国事務取調掛東久世通禧に伝え、2/6新政府に任官、外国事務掛を命じられる 2/18参与職に就任、3/8堺事件(事後処理担当)、3/13に徴士参与職外国事務局判事となる、3/23外国公使と天皇初謁見の通訳として参内(3/26にイギリス公使パークスと天皇の謁見も) 5/11、神戸開港場管轄外国事務を全て委任される(この頃から神戸在住?) 6/22、大阪府判事兼外国官判事を命じられ、兵庫・神戸両所に在勤することとなる 7/12、兵庫県知事任命 11/30、北方攻略して戻ってきた将兵を朝廷の常備隊にする提言を太政官出張所に提出 12月、廃藩置県を行う建白を提出

  18. 1869年|明治2年|29歳

    1月、「国是綱目」を提出 5/23、保守派の反発で判事に降格 (6/27、戊辰戦争終結) 6/27、会計官権判事に昇進、東京勤務を命じられる、木戸・井上馨らとともに神戸港より乗船、横浜港を経て、7/8東京に入る 7/20、版籍奉還会議で藩主を知藩事に任用して世襲とすることにほぼ決定 7/22、伊藤・井上馨ともに辞表提出、驚いた岩倉具視・大久保利通は世襲の二文字を除く、7/25版籍奉還、8/15政府が大制度改革、新制度で8/25大蔵少輔・9/16民部少輔に任じられる(9/12長女貞子病死) 11月、貞子墓参りと家族を東京に移すため神戸に行き、母琴子・梅子夫人・生子を連れて東京へ戻る(築地の本願寺別院付近の家)(父十蔵も年内に東京へ引っ越し) 翌年10月までに造幣寮整理、外国人所有贋金の引き換え、租税徴収、大阪・河内・堺・奈良諸府県の分合、東京―横浜間に鉄道敷設計画、イギリスと契約して資金調達

  19. 1870年|明治3年|30歳

    7/28、関西に出張、阪神間の鉄道路線の選定などの計画、造幣法の改良協議 8/6、民蔵分離となり大蔵省専任となる 11/25、米国出張を命じられる(アメリカの理財に関する諸法令、国債、紙幣および為替、貿易、貨幣鋳造調査のため) 12/23、横浜から米国汽船アメリカ号に乗り出発

  20. 1871年|明治4年|31歳

    渡米中:(3月頃)建議(金本位制採用など)、高輪南町に家を買う 6/26、帰国 8/9までに大蔵省職制改革案を提出 8/10、造幣寮のある大阪に出張 (8/29廃藩置県の詔) 9/11、伊藤は大蔵少輔のまま租税頭に任じられる(左遷) 9/19、造幣頭も兼任するようにとの命も 11/2、工部大輔に就任(木戸の動きで) 11/20、条約改正に向けての列強の意向打診と日本近代化方策を学ぶため使節団を欧米に派遣することが決まる 12/23午後1時、岩倉使節団(岩倉、木戸、大久保、山口尚芳、津田梅子などと)がアメリカ号に乗船、サンフランシスコに向けて横浜港出発

  21. 1872年|明治5年|32歳

    1/15、サンフランシスコ到着 2/29ワシントンに入り、3/11条約改正交渉開始 全権委任状がなく大久保と日本に帰国 7/22ワシントンに戻るがこの日に改正交渉は中止 9-12月、イギリス(マージ―河沿いの工場群とマンチェスター・リヴァプール二つの工業都市を精力的に視察) 12月、フランス

  22. 1873年|明治6年|33歳

    (1/6、養子の井上馨の兄の子勇吉を梅子が東京に連れて帰る) 2月、ベルギー、オランダ 3月、ロシア 4月、デンマーク、スウェーデン 5月、イタリア 6月、オーストリア、スイス 7月、フランス 9/13、横浜港へ帰る 征韓論政変が起こっており、9/22大久保を訪ね、9/23岩倉と連携して事態打開に動く意思 10/12大久保が参議就任、10/14閣議で決着つかず、10/15西郷隆盛の朝鮮派遣を決定、10/17大久保・岩倉・木戸が辞意、三条実美は動揺し10/18辞任を岩倉に頼み急病、10/20明治天皇が岩倉を太政大臣代理へ、10/23岩倉は天皇に奏聞書を提出、朝鮮への使節派遣反対を上奏、10/24天皇は反対を受け入れた (10/23西郷は辞官を求め、10/24板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣は辞表) 10/25、参議兼工部卿となる

  23. 1874年|明治7年|34歳

    2/1、佐賀の乱開始 2/6、台湾出兵を決定 2/14、大久保が東京出発、3/1佐賀城奪還、4/13江藤新平処刑、4/18木戸が辞表提出 5/2、西郷従道独断で台湾へ兵を出発、5/13木戸辞表認められる、5/23島津久光の建言、5/25大久保辞表提出、5/27伊藤は山県と連携し久光の申し立ては承知できないと大久保を擁護 6月上旬に台湾討伐はほぼ終了、6/6大久保再び出勤、8/1大久保を清国に派遣する命令 8/2大久保清国へ出張している間の内務卿を兼任 秋に芝の赤羽の小山町に新築の邸宅を建築 10/31、大久保清国との談判を妥結

  24. 1875年|明治8年|35歳

    1/5木戸が神戸入港、大久保・黒田清隆が出迎え大阪会議、1/7・1/8大久保・木戸会談 1/23、東京から伊藤が到着し木戸と会い、1/27木戸・伊藤会談、1/29大久保・伊藤・木戸で会合、木戸は東京へ向かうことに同意、1/30木戸は板垣らと会い、その後神戸で伊藤に会い、2/4伊藤が大久保に木戸と板垣の合意の趣旨を説明し木戸にも確認 2/11料亭「加賀伊」に木戸が大久保・板垣を招き、伊藤・井上馨も同席、木戸・板垣の参議復帰が決定 9/20、江華島事件

  25. 1876年|明治9年|36歳

    赤羽邸売却、一時霊南坂下の小さな官舎に住む 1/18、黒田が兵団を送るように依頼、大久保は日清戦争誘発を恐れて伊藤や山県と相談し拒絶 2/27、黒田が朝鮮を軍艦で威圧、日朝修好条規を結ぶ 3/28、木戸は参議を辞任 10/24、熊本で神風連の乱 10/27、福岡で秋月の乱 10/28、前原一誠が中心の萩の乱 11月末から12月にかけて茨城県・三重県・愛知県・岐阜県・堺県で地租改正が原因の農民一揆

  26. 1877年|明治10年|37歳

    2/12、西郷隆盛挙兵 この頃伊藤は三条・木戸・山県らと明治天皇に従って京阪神に来ていた(孝明天皇の10年祭式と京都・神戸間の鉄道の開通式に出席するため) 2/12、山県の判断で出兵命令 2/18、伊藤・三条・大久保・木戸・山県が京都で会合、2/19西郷たちの「暴徒討伐令」が布告、大阪に征討総督本営が置かれ、大久保・伊藤両参議を中心に軍の動員や編制、全体の戦略にあたることになる 9/24、西南戦争終結(その間、5/26木戸が胃病で死去)

  27. 1878年|明治11年|38歳

    5/14、大久保利通が麹町紀尾井坂下で殺害 5/15、工部卿を辞め、内務卿を引き継ぐ 8/23、竹橋騒動で山県の危機、伊藤は山県を支援、参謀本部を独立させて12/24参謀本部長に山県就任、この過程で伊藤は陸軍を掌握 12/27、琉球藩廃止決定 秋:東京の高輪邸を買い戻す(家族は主に高輪、伊藤は官舎もしくは高輪で過ごす)

  28. 1880年|明治13年|40歳

    2/28、参議と各省の卿の兼任をやめることとなる 5月、大隈外積募集案、伊藤は反対に回り、6/3天皇は許可せず、大隈重信は疎外感を強めていくようである 立憲政体に関する意見書を井上毅に起草させ、12/14上奏、日本の状況を踏まえた秩序ある発展、近代化を主張

  29. 1881年|明治14年|41歳

    1/2、熱海に到着 1月中旬から下旬にかけ大隈・井上馨、黒田と立憲政体について話し合う 3月、大隈が提言(裏切り:早期国会開設・政党内閣制・福沢諭吉など在野の勢力とのつながり) 7/2伊藤が知り驚愕、7/4大隈は伊藤に謝罪、伊藤は許さず、また7/4までに井上毅との関係もおかしくなったよう(毅があせりすぎた)、7/5に毅の意見を退け辞退させ、憲法制定の準備を休止させる 7/21、黒田清隆が開拓使官有物払い下げを申請、8/1に発表、不当取引があると炎上、藩閥内では福沢や三菱の岩崎弥太郎らと結んだ大隈がこの問題に乗じ民権運動を利用して政府の主導権を握ろうとしている疑惑をもつ 10月初めに伊藤、松方正義、西郷、黒田は払い下げ中止に向け調整、井上・山県も協力、10/12開拓使官有物払い下げ中止、1890年に国会開設、大隈の辞任を認めることが公表 (明治十四年の政変:大隈重信追放、翌1882/1/11黒田は参議兼開拓長官を依願免職)

  30. 1882年|明治15年|42歳

    3/14、憲法調査のためイギリス船「ゲーリック号」に乗り横浜から欧州へ出発、出発の数日前に伊藤の高輪邸で岩倉と送別の宴、出港の時も見送りに、伊藤が帰国する2週間前に岩倉は死去するため、永遠の別れとなる 5/5ナポリ到着、5/16ベルリンに着く、3日後にベルリン大教授のグナイストに会い憲法講義の打合せ、弟子のモッセに講義を受ける(5/25-7/29) 8月初旬からグナイストがオーストリアの温泉に避暑に行くため同時にオーストリアへ、ウィーン大教授のシュタインを訪れる、8/8にウィーン到着、シュタインに面会、会談で当時のヨーロッパ君主制の最先端の学説、君主機関説の主旨を理解 8/28、ベルリンでドイツ皇帝ヴィルヘルム一世から陪食を許される 8/30、パリでロシア皇帝即位式に派遣された有栖川宮熾仁左大臣に会う 9/18からシュタインの講義を受ける 10月に有栖川宮も一緒に講義を受ける 11/5ウィーンを去り、11/14からベルリンでモッセの講義

  31. 1883年|明治16年|43歳

    1/30、ドイツ首相ビスマルクと会見 2/19、ベルリンを去り、ベルギーのブリュッセルを経て3/3イギリスのロンドン着、イギリスにおける憲政の運用を研究、5月上旬まで 上海を出てから、8/4フランス戦「タナイス号」で横浜港着(2週間前に岩倉死去) 8/6参内、三条・有栖川宮・山県・福岡孝弟らと天皇から午餐を賜る、8月下旬に出獄した陸奥宗光と歓談 (暮れから翌年1884夏にかけて津田梅子が家庭教師兼通訳として伊藤家に滞在)

  32. 1884年|明治17年|44歳

    3/17、憲法準備のため制度取調局を設置、自ら長官を兼任、伊東巳代治、井上毅、金子堅太郎に憲法調査をさせる、3/21宮内卿を兼任 12/4、漢城でクーデター、甲申事変勃発

  33. 1885年|明治18年|45歳

    1/9、朝鮮に派遣した井上馨が朝鮮国と漢城条約を結ぶ、その後も清国軍は漢城に制圧を継続 2/7、伊藤が清国へ派遣されることが決定、2/24勅旨が下りる、3/6長崎から手紙 3/14天津着、いったん北京、4/2に天津に戻る、(天津にいる間は天津領事館:領事は原敬)、4/3から李鴻章と交渉開始 4/18天津条約、4/19天津を発つ 7/7、天皇が高輪の伊藤邸に行幸、8/10天皇の行幸に従って神戸 12/22、太政官制廃止、新しい内閣制度が作られ、初代首相に就任

  34. 1886年|明治19年|46歳

    神奈川県夏島に別荘を建てる 2/4、伊藤首相兼宮相が主導して、宮内省官制が定められる

  35. 1887年|明治20年|47歳

    3月下旬に皇室典範草案完成、4月下旬から5月にかけ、甲乙二つの憲法草案完成 6/1以降8月にかけて神奈川県夏島で集中的な検討がされ夏島草案となる 9月初めと中旬に議院法と貴族院令の草案完成、10月高輪の伊藤邸でさらに検討 7/29条約改正中止、9/17井上馨外相辞任、伊藤が外相兼任、宮省は辞める

  36. 1888年|明治21年|48歳

    2/1、大隈を外相として入閣 4/27、憲法草案確定、4/30憲法や皇室典範などの重要法令を審議するため枢密院が設置、首相を辞して初代枢密院議長となる 5/8、天皇が臨御して枢密院開院式、5/25から皇室典範原案の審議、6/15に終了、6/18から憲法草案審議、7/13に終了 9月中旬から議院法・会計法など憲法付属法案の審議

  37. 1889年|明治22年|49歳

    2/11、大日本帝国憲法が発布、同時に議院法・衆議院議員選挙法、会計法、貴族院令という憲法付属の各法令が公布、皇室典範も制定、旭日桐花大綬章を受ける 4月、娘生子が末松謙澄と結婚 8/2、大隈条約改正案に反対あり閣議、大隈は条約廃棄論で脅してでも改正を達成しようとした 9/20、天皇は小田原にいる伊藤の下に元田永孚を派遣し条約改正について諮問、9/23伊藤は大隈外相に会い大隈の動向を確認、9/24小田原の別荘に帰る 10/4、天皇に陪食、山県に会いに大磯を訪ねるが会えず、10/11山県を訪れ、黒田に枢密院議長の辞表を提出、10/18大隈は条約改正反対の壮士から爆弾を投げられ重傷、10/22に黒田内閣は倒れる 高輪邸を岩崎家へ売却 夏に小田原緑町に夏島別荘の移築を開始、10月に完成、12月頃から小田原を本拠地に

  38. 1890年|明治23年|50歳

    小田原十字町に別荘「滄浪閣」を作り、生活の中心となる 7/1、第一回総選挙、7/19井上毅を枢密顧問官に、8月頃胃病、10/4神祇官再興に反対、10/24初代貴族院議長に就任 11/25、第一回帝国議会招集、11/29開院式(大日本帝国憲法施行日)、解散を避けて1891/3/8に閉会

  39. 1891年|明治24年|51歳

    3/8、第一回議会閉会 5/11、大津事件勃発 津田三蔵がロシア皇太子ニコライをサーベルで斬る 箱根の塔ノ沢温泉にいた伊藤は事件と参内の命を知ると直ちに東京へ 5/12AM1時に新橋駅に着く、AM6時に天皇を見送るために新橋駅に、対策を練った後に正午に品川駅を発つ汽車で京都に向け東京を離れる、5/13AM6時に黒田を伴い京都着、祇園の中村楼に投宿、ロシア公使面会後京都御所で天皇に拝謁、天皇と共にニコライを常盤ホテルに見舞う 5/19、ロシア軍艦「アゾヴァ」に天皇が呼ばれ会食、アゾヴァはウラジオストックに向け出港 5/21、AM9:30発の汽車で京都を離れる 6/1、枢密院議長に任命、7/21貴族院議員を辞任、貴族院議長を辞める 11/14、山口に向けて小田原「滄浪閣」を出発(旧藩主の記念事業の件)

  40. 1892年|明治25年|52歳

    1/6、小田原に戻る、1/22天皇に拝謁、政党組織したいと上奏、2/23首相官邸で「元勲会議」、枢密院議長の辞表提出、2/26小田原「滄浪閣」で辞表が差し戻される 8/8、第二次伊藤内閣成立、11/27馬車の事故で重傷、大磯で療養 伊皿子に邸宅を購入、父母のために高輪に家を借りる 神戸諏訪山にも小別荘あり

  41. 1893年|明治26年|53歳

    1/8、山県・黒田・井上馨に手紙、提言(検討されず)、2/6首相復帰、3/1第四議会閉会 7/5、陸奥宗光外相により条約改正の方針が閣議に出される、9月からイギリスと予備交渉、11月下旬にイギリスとのみ本交渉に入ることを決める 11/10、軍艦「千鳥号」事件で意見した井上毅を拒否

  42. 1894年|明治27年|54歳

    4/26、甲午農民戦争が始まりつつあり、6/5日本出兵 7/16、イギリス外務省でイギリスと新条約(治外法権撤去) 7/25、日清戦争開始(豊島沖開戦)、7/27天皇が大本営会議に伊藤を召し列席するよう指示、7/26伊藤は承諾、7/29成歓・7/30牙山を占領、8/1清国に宣戦布告 9/4、朝鮮へ出征する第一軍司令官の山県を神奈川国府津まで見送る、9/13広島に大本営を置くことになり、明治天皇に供奉して汽車で出発、車中で発病、名古屋で療養、9/15-16平壌の戦いに勝ち、9/16名古屋発、9/17黄海海戦に圧勝、9/18広島大本営着、9/19参内、9/20AM1時過ぎに黄海海戦勝利の報が届く、病気の山県帰国、12/16宇品港に着いた山県を出迎える 12/18、山県の段取りをした上でAM11:50汽車で広島を出発、東京へ 大山巌司令官率いる第二軍が遼東半島に上陸、大連・旅順を陥落

  43. 1895年|明治28年|55歳

    2月、李鴻章が創設した北洋艦隊の拠点、威海衛要塞を占領し、日本の勝利が決定的となる 3/20、伊藤と陸奥が全権、清国全権の李鴻章と下関の春帆楼で講和会議開始、4/17日清講和条約(朝鮮国の独立承認、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金二億両)調印、4/23三国干渉(ロシア・ドイツ・フランスが遼東半島を返すよう勧告)、5/4遼東半島を放棄することを決定 8/14、大勲位、菊花大綬章を授けられる、伯爵から侯爵に陞爵 10/7-10/8、閔妃殺害事件 11/13、療養のため大磯の別荘「滄浪閣」へ 12/15、東京へ戻る

  44. 1896年|明治29年|56歳

    2/11、李王と世子がロシア公使館に入り政務を執ることとなる 6/9、山県―ロバノフ協定成立:日露協商路線 4/14、自由党総理板垣退助が内相に就任(伊藤内閣と提携宣言をしていた自由党への見返り) 8/27、松方・大隈入閣問題の調整がつかず辞表、8/31承認、9/18第二次松方内閣 11/10、大磯発で西日本漫遊旅行へ、奈良、神戸、舞子、11/29夜汽車で広島へ、11/30宮島、厳島、12/11広島江田島の海軍兵学校の卒業式に西郷従道の誘いで臨席、広島に戻り西郷と沈酔、下関、12/23福岡の三池着、旧藩主の病気が重いとの報を受けて東京に引き返す 5/13、大磯に邸宅を落成し宴、滄浪閣と名づけ本宅に、小田原を引き払う、冬に伊皿子邸は売却 東京では永田町首相官邸、霊南坂の宮内省所有の官舎や鳥居坂の借家、帝国ホテル、時折大磯に帰るという生活

  45. 1897年|明治30年|57歳

    1月、神奈川県金沢に別荘落成 2月下旬以降に板垣や林有造ら土佐派の自由党支配が崩壊、松田正久が最高幹部となり3/9陸奥に自由党入党と総理就任を要請(伊藤への裏切り、伊藤失望) 4/22、明治天皇は有栖川宮威仁親王にイギリスヴィクトリア女王即位60年祝典に参列を命じ、伊藤も随行することに 5/7、横浜から出発、アメリカを経て6/6パリ着、イギリスへ、6/21祝典、バッキンガム宮殿に参上、ヴィクトリア女王に拝謁、公式晩餐会に参列、6/28までの行事を済ませる、その後有栖川宮とパリへ 7/13、宮はパリから帰国、イギリス、フランス、イタリア、オーストリア四か国を視察、ドイツ・ロシアを訪問しようとしていたが伊藤の帰国が必要と情報、8/7帰途につき、9/5帰国 9/7参内(8/24陸奥は死去) 10月、神奈川県金沢別邸建築

  46. 1898年|明治31年|58歳

    1/12、第三次伊藤内閣発足、2/13遺言を書く 4/25、西―ローゼン協定、政党組織計画が失敗、失望して6/19大磯に帰る、6/24天皇は伊藤・黒田・山県・西郷・井上馨・大山ら元老を召して対応策の相談、伊藤は辞表提出、6/25大隈重信・板垣退助を官邸に招き天皇の命があれば組閣するよう勧めた、6/30第一次大隈内閣(隈板内閣)成立、その後伊藤は大磯に帰る 7/13、大磯から東京に戻り帝国ホテルに泊まる 清国漫遊出発、7/26大磯を出発、岐阜県の養老渓谷、京都の宇治・嵐山遊覧、京阪地方を経て8/16神戸港を出港、8/18長崎着、韓国仁川を経て、8/25漢城に入る 韓国王や政府から待遇を受ける、9/8に仁川発、9/11清国の天津着、大歓待を受ける 9/14北京に入る、9/20皇帝に謁見、9/21政変で西太后が政治を行うことになり、李鴻章が復権、その後もイギリス公使館や清国政府から歓待、9/29北京発、10/5上海着、大歓待、漢口・南京を訪れた後、10/22再び上海に帰還 10月末、憲政党内の内紛が激しくなり10/31大隈首相は辞表提出、明治天皇は上海に電報、伊藤は上海を出発、11/7長崎着、11/8第二次山県内閣(伊藤は何もできず)

  47. 1899年|明治32年|59歳

    2/11、憲法発布10年紀年祝賀会で演説 2月末、横浜で西園寺公望と会い大磯の滄浪閣に泊める(11月西園寺が大磯に別荘完成) 4/10、長野市で新政党創立を訴える演説、全国諸都市で遊説開始 6月までに大阪・神戸・福岡・名古屋などを訪れ官民の大歓迎を受け、二十数回もの講演(6/2萩町歓迎会で演説、6/9山口県徳山町や柳井津歓迎会で演説)、萩に立ち寄り墓を立て替える 皇太子教育が不十分と提言、5/8東宮監督と東宮伺候という皇太子教育のためのポストを廃止、有栖川宮を東宮輔導に任命、伊藤は東宮輔導顧問に任命 8/24、天皇が宮中に帝室制度調査局を設け伊藤が総裁に任命される

  48. 1900年|明治33年|60歳

    第十四議会で改正選挙法成立 6/1、星亨が伊藤に憲政党党首となることを依頼、伊藤から新党結成を切り出す 6/20、山東省で勢力を増した義和団がドイツ公使を殺害、北京で攻撃開始 7/5、明治天皇は清国問題について元老伊藤に閣僚に助言するよう命じる 8/14には日本を含めた八か国連合軍が北京占領 8/22、撤兵提議を勧告するも山県・青木周蔵は実行せず 8月下旬にアモイ(厦門)事件:児玉源太郎台湾総督が謀略により義和団の乱の混乱に乗じて台湾対岸の清国アモイにあった日本の本願寺の布教所を焼き払い、アモイを占領しようとしたが、イギリスをはじめ列強がアモイからの撤兵を要求、伊藤も撤兵を強く求め撤兵 8/25、芝公園「紅葉館」で西園寺公望らを招き、新党創立の創立委員とした 9/15、帝国ホテルで立憲政友会の発会式、伊藤が総裁となる 10/19、第四次伊藤内閣成立、体調を崩し、10/27西園寺を首相臨時代理として10/28大磯に帰り、11/3から熱海温泉

  49. 1901年|明治34年|61歳

    3/24、第十五議会終了 5/2、閣内が不統一であるため閣僚の辞表を取りまとめ辞表提出 6/2、第一次桂内閣成立 8/4、桂太郎首相を葉山に訪れ、日英同盟について相談 8/26、井上馨と桂は大磯の「滄浪閣」に伊藤を訪ねアメリカ行き(イェール大学創立200年の名誉博士号贈与の招待を受けたため)を取りやめてロシア行きを勧める 9/13、桂私邸で伊藤送別の小宴、山県と桂が伊藤に独断専行しないように言い不機嫌になる 9/18、都筑馨六を伴い、加賀丸に乗船して横浜港出発、10/2シアトル、10/20ワシントン着、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトと会見、10/23イェール大学創立200年祭に出席、名誉法学博士を受ける 11/4フランスに入り、大統領・外相と会見、11/14パリで林董駐英公使から日英同盟交渉の経過説明を受ける ロシアに向かいペテルブルクに入り、11/28ロシア皇帝ニコライ二世に拝謁、12/2と12/4にラムズドルフ外相と12/3にヴィッテ蔵相と会見、12/10日英同盟を結ぶことが伊藤を除く元老会議で確定 12/14ベルリンへ?、12/28桂首相から日露交渉の中断を求める電報を受け取り日露交渉中止

  50. 1902年|明治35年|62歳

    1/3ベルリン発、1/4ロンドン着、1/15ロンドン発、1/17パリ発、1/21ナポリ着発、1/30第一回日英同盟協約調印、2/27大磯着 10/25、「滄浪閣」で還暦の祝宴 12/25、桂・山本権兵衛海相・曾禰荒助蔵相と原敬・松田正久および犬養毅・大石正巳の会見を実現(第三期海軍拡張計画を実現するため)、妥協は実現せず

  51. 1903年|明治36年|63歳

    1/2、葉山御用邸の皇太子に拝謁、近くの桂の別荘で妥協交渉を進め、2/24までに伊藤と桂内閣の間に妥協の密約 4/21、京都の山県別荘「無隣庵」で山県、桂首相、小村寿太郎外相と対露方針検討 5/20、政友会と桂内閣の妥協が決まる、5/24妥協案承認 6/17、桂が大磯「滄浪閣」に伊藤を訪れ、日露交渉の相談、6/23御前会議で伊藤・山県・大山・松方正義・井上馨ら五元老と桂・小村・寺内正毅・山本で会議、強硬な日露交渉を黙認 7/6、天皇から拝謁、枢密院議長任命につき相談、7/13枢密院議長に就任、政友会総裁を辞任7/15、西園寺公望が第二代政友会総裁に就任 10/5、東京を去り大磯「滄浪閣」に向かう(10/7母琴子永眠) 12/16、首相官邸に元老と主要閣僚が会議

  52. 1904年|明治37年|64歳

    2/4、伊藤ら五元老と桂・小村ら主要五閣僚で御前会議 日露開戦決定、2/8戦闘開始(日本海軍連合艦隊が旅順港外のロシア艦隊を攻撃)、2/9仁川沖でロシア鑑二隻を撃沈、2/10ロシアに宣戦布告、2/12大本営設営、伊藤は構成員になれず、2/23「日韓議定書」締結 3/7、韓国皇室慰問の特派大使に任命、3/13東京を出発、神戸から仮装巡洋艦「香港丸」に乗船、3/17仁川から漢城に入る、3/18と3/20に韓国皇帝(高宗・李煕に謁見)、韓国皇帝より大勲位金尺大綬章を授けられ、3/26漢城を去り仁川から再び「香港丸」で3/29佐世保、佐世保鎮守府を視察、4/1東京に戻り参内して明治天皇へ報告 5/1、韓国と満州国境の鴨緑江を渡り九連城占領 5/30伊藤ら元老会議、5/31閣議で「対韓方針」決定 8/10黄海海戦勝利、8/22第一次日韓協約、9/4遼陽占領、10/10-14沙河会戦勝利、12月中旬までに旅順港のロシア艦隊に地上からの砲撃で大打撃

  53. 1905年|明治38年|65歳

    1/1、旅順のロシア軍降伏、3/1-10奉天会戦:日露戦争最大の陸上戦闘で勝利 4/17、桂首相・小村外相・山本海相・寺内陸相で相談、4/19伊藤・山県ら四元老と四閣僚で審議、4/21閣議で講和決定 5/27-28、ロシアバルチック艦隊と日本海海戦で大勝 9/5、日露講和条約がポーツマスで調印、10/15批准、10/16公布 韓国特派大使に任命、11/5漢城に向け出発、11/10漢城着 11/11と11/15に韓国皇帝(高宗)に謁見、11/15第二次日韓協約案を提示、11/18調印、11/22水原八達山に遊猟した帰途の汽車に投石、軽い傷を負う 11/28、漢城と仁川の官民の日本人による歓迎会、11/29漢城出発、仁川から軍艦で12/3下関着、同地で歓迎会、12/4出発、12/5大磯、12/8参内、12/21初代韓国統監に就任

  54. 1906年|明治39年|66歳

    講和反対運動(国民の期待に答えられず)、1/7第一次西園寺内閣発足 2/16、山県・井上馨・西園寺首相・加藤高明外相・大山巌元帥・児玉源太郎大将を大磯「滄浪閣」に招いて南満州における陸軍の態度について議論 3/2漢城着、3/9高宗への内謁、3/13会議、3/21会議、4/1山県・大山とともに大勲位菊花章頸飾を受けた、4/21漢城出発、仁川-神戸間を軍艦「浪速」に乗り4/24大磯着、4/30青山練兵場での陸軍凱旋観兵式を陪覧 5/22、西園寺首相に「満州問題に関する協議会」を開かせ、南満州の軍政停止を決める 6/20大磯出発、6/23漢城着、7/7宮禁令、11/21漢城発

  55. 1907年|明治40年|67歳

    正月を日本で過ごす 1/17付で明治天皇から旧仮御所宮殿の御会食所の建物を下賜、東京大井村に土地を購入、旧御会食所を移築し、恩賜館と名づけ住居を建てる 3/20、漢城に戻る 5/22、韓国皇帝高宗がオランダハーグ平和会議に向けて密使を派遣し、日韓保護条約の無効を列強に確認させようとしていることを知る、5/25李完用内閣発足 6月下旬、オランダハーグ第二回万国平和会議で韓国皇帝高宗の派遣した密使が保護条約の無効を列強に確認させようとしたが拒否 7/1、遺言を書く、7/2伊藤に伝わる(ハーグ密使事件)、7/19高宗譲位に同意、7/24第三次日韓協約が結ばれる、8/1韓国軍解散、反日ゲリラ闘争である義兵運動が盛り上がる 8/11、漢城を出て8/16大磯に帰る、9/2伊藤・山県会見、妥協でき、9/12軍令第一号公布、9/21山県・大山と共に公爵に陞爵、9/26大磯を出て、10/3漢城帰任 10月、嘉仁親王(のちの大正天皇)の韓国訪問(10/16親王は仁川上陸、漢城の統監官舎に宿泊、10/17親王は純宗・皇后・皇太子に会い、高宗にも謁見、漢城で行事を済ませて10/20に韓国を出発した) 11/13、皇帝純宗と皇太子(李垠)を昌徳宮に遷宮、11/19太子太師職に任命、12/1韓国宮内府官制改革、12/5漢城を離れる(李垠を伴い帰国:日本留学)

  56. 1908年|明治41年|68歳

    2月の憲法発布二十年の祝宴(恩賜館) 3月、東拓法案提出、8月東拓法公布 7/5か7/6頃に辞任の意向を述べる 8月末、静岡県興津にいた井上馨の病気が急に悪化したと聞きあわてて興津へ、十数日間親しく看病 11月、梅子夫人の還暦記念の宴が恩賜館で開かれる 11/25、漢城に帰任、精力的に仕事

  57. 1909年|明治42年|69歳

    正月を漢城で過ごす、1/2李完用首相を招き、純宗の巡幸を提案、伊藤も陪従 1/7-1/13、南韓地方(漢城を出発、大邱・釜山・馬山など訪れる) 1/27-2/3、北韓巡幸(平壌・新義州・開城などを訪れる:排日運動があり不穏) 2/10、漢城出発、2/17大磯に、3/1束荷村柳の出生地とその周辺に別邸の着工(1910年に遠祖林淡路守通起の没後300年祭を予定) 3/11、大磯出発、愛媛道後温泉で20日ほど滞在、祖先の河野氏の遺跡を探った(河野氏は伊藤の遠祖の林淡路守通起の先祖の家) 4/10、桂・小村に対し韓国併合に同意 5月、東京市内田山の井上邸で快気祝いの園遊会 5/26、東京の木戸孝正公爵邸で木戸孝允三十三年祭だったがこちらには出席せず、京都市東山霊山の木戸の墓前祭を行い(井上馨・杉孫七郎らと)、その後禁門の変で戦死した入江九一・久坂玄瑞・寺島忠三郎・有吉熊次郎らの墓前へ 6/14、統監を辞任、曾禰荒助副統監が統監に就任 統監の事務引継ぎのため7/4下関を出発、7/5漢城着、7/6桂内閣は閣議で併合の方針、天皇の裁可を得る、7/12韓国司法および監獄事務委託に関する覚書を結ぶことに成功(韓国司法権は日本に委託)、7/14漢城出発 8/1-23、李垠らの東北・北海道行啓に同伴、8/28清国憲政大臣李家駒を大井町の恩賜館に招き送別午餐会を開く ハルビンでロシアココーフツォフとの会見が決定、10/11伊藤の霊南坂邸に山県が訪れ話し合い、10/14汽車で大磯発、10/15下関春帆楼に一泊、10/16門司より乗船、10/18大連到着、10/19大連で官民歓迎会、10/20旅順で戦跡を見て歩く、旅順官民歓迎会、10/21旅順から乗車、遼陽・奉天・撫順を経て、10/25PM7時に長春に到着 10/26AM9時、汽車でハルビン駅に到着、サロン車でココーフツォフが迎え挨拶、プラットホームに降りる、9:30安重根が発砲、列車内に抱え込まれ応急処置、10時に死去

日付表記について:日本でグレゴリオ暦が正式に採用された1873/1/1を超えた人物は、グレゴリオ暦での日付を記載しています

参考文献

  • 伊藤博文 近代日本を創った男

    伊藤之雄 / 講談社学術文庫

  • 伊藤博文の流儀

    福屋利信 / ミネルヴァ書房

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