伊達政宗
動画でたどる
南奥の覇者となり、警戒されながらも豊臣・徳川大名として納まった伊達政宗。 その生涯の足跡を地図で追いました。
伊達政宗の足跡
足跡地域
足跡地
- 陸奥金山城跡
- 小斎城跡
- 白石城
- 仙台城
- 黒川
- 佐沼城跡
- 宮崎城跡
- 登米
- 高清水城跡
- 岩出山城跡
- 村田城跡
- 北目城跡
- 松島
- 鹽竈神社
- 大崎八幡宮
- 陸奥国分寺
- 龍寶寺
- 瑞巌寺
- 月浦
- 若林城跡
- 保春院
- 北山
- 青葉山
- 経ケ峰
- 茂ケ崎山
- 増田
- 米沢城跡
- 鮎貝城跡
- 小国
- 桧原城跡
- 福島城跡
- 河股城跡
- 小出森城跡
- 三春城跡
- 小浜城跡
- 二本松城跡
- 岩角城跡
- 本宮
- 人取橋古戦場
- 大森城跡
- 宮森城跡
- 阿久土
- 郡山
- 高玉城跡
- 駒ヶ嶺城跡
- 新地城跡
- 猪苗代城跡
- 摺上原古戦場
- 鶴ヶ城
- 須賀川城跡
- 大里
- 白川城跡
- 白河小峰城跡
- 飯坂城跡
- 正西寺
- 鹿沼
- 宇都宮城跡
- 喜連川
- 日光東照宮
- 高崎
- 久喜
- 江戸城跡
- 底倉
- 石垣山一夜城跡
- 小田原城
- 藤沢
- 鎌倉
- 津川
- 弥彦
- 高田城跡
- 甲府
- 駿府城跡
- 清洲城
- 大津
- 京都
- 宇治
- 聚楽第跡
- 伏見城
- 向島城跡
- 二条城
- 大阪城
- 堺
- 枚方
- 八尾
- 道明寺
- 天王寺
- 吉野
- 奈良
- 井原
- 博多
- 名護屋城跡
- 壱岐島
- 勝本
- 対馬
- プサン
- ウルサン
- 梁山
- キムヘ
- 晋州城
- 金海竹島倭城跡
年表
- 1567年|永禄10年|1歳
8/3米沢城主の父輝宗と母義姫(最上義光の妹)のもと、米沢城で誕生
- 1571年|元亀2年|5歳
この頃、疱瘡にかかり右目を失明
- 1572年|元亀3年|6歳
輝宗は名僧虎哉宗乙を政宗の師とし、傅役として片倉景綱を登用 輝宗は虎哉を米沢領内の夏刈にある名刹資福寺の住職とする
- 1577年|天正5年|11歳
元服
- 1579年|天正7年|13歳
愛姫(三春城主田村清顕の娘)と婚姻
- 1581年|天正9年|15歳
5月初陣、相馬氏と戦うため伊具郡まで出陣
- 1584年|天正12年|18歳
10月輝宗から家督を相続
- 1585年|天正13年|19歳
大内氏・石川氏が伊達・田村氏と敵対関係に、大内を支援する蘆名氏とも敵対関係に 5月蘆名領を急襲、5/3に檜原城を落とす 6月下旬に一度米沢に戻る 閏8/12米沢を出陣、杉目に入り河股に移動、蕨平で舅の田村清顕と合流 閏8/24小浜城主大内定綱の籠る小手森城の攻撃を開始、閏8/27落城 同時に落城した築館城に移り、半月ほど滞在 9/22田村領に入って大内領の掃討を開始、岩角城攻撃を企図 定綱は9/26小浜城から逃亡し蘆名領へ、9/27政宗は小浜城入城 敵対した二本松城主の畠山義継と協議、10/6義継が無条件降伏することを決める 10/8宮森城にいる輝宗のもとへ義継が御礼に来たが突然輝宗を拉致、二本松城を目指して逃亡中の高田原で輝宗もろとも殺害される(粟之巣の変) 二本松城では義継の子の国王丸が新城弾正に盛り立てられて籠城、10/15から政宗は攻撃開始、降雪のため10/21に小浜城へ戻る 佐竹義重が蘆名・岩城・石川・白川各氏を伴い11/10頃に須賀川まで出陣 政宗は岩角に移り、高倉へ桑折宗長らを配置 11/16連合軍が前田沢まで迫り、政宗も本宮に移って観音堂に本陣を置く 11/17合戦し敗北、なぜか連合軍は撤兵して九死に一生を得る(人取橋合戦/本宮・観音堂合戦)
- 1586年|天正14年|20歳
4月二本松城を包囲、小浜に戻る 7/4相馬義胤を中人として和睦を受け入れる 畠山氏は二本松城を開城、蘆名領へ退去が条件 同時に伊達・蘆名間も講和(二本松惣和:中人には田村清顕・白川義親も加わった) 7/27二本松城に足を運びすぐに小浜城へ戻る 8月上旬に米沢城に帰還 10/9に舅の田村清顕が死去、弔意を示すべく米沢を出て杉目まで行ったがすぐに米沢へ戻る 田村家中は伊達派と相馬派に分かれる
- 1587年|天正15年|21歳
4月下旬頃に国分氏で国分盛重に対する内乱発生、盛重に対して名代召上処分、盛重は国分領から退去して米沢へ 国分氏は堀江長門守を中心に政宗が直接支配する様になる(直轄領化) 10月鮎貝宗信謀反事件、即座に出陣して乱を鎮圧、鮎貝の地を直轄領化
- 1588年|天正16年|22歳
1/17大崎領へ大軍を派遣(大崎合戦) 3/24最上氏と事切発言あり、敵対関係に(大崎と連携する最上に対するため、上杉・本庄氏と連携) 4/5大内定綱が従属(赦免) 4/18頃、石川弾正が相馬氏に通じて離反 5/2陣触、5/15出馬、5/22小手森城を攻める 相馬義胤も小手森近くまで出馬、5/25に政宗は大森城に引き上げる 閏5/12、相馬義胤が田村氏の三春城入城を試みるも阻止され船引へ移る 政宗は相馬氏の支援がなくなった石川弾正を攻め、閏5/16に小手森城を落とす 田村家中も伊達氏に味方することを決定、閏5/19に船引の相馬勢を攻めようとしたが相馬勢は武具を放棄して相馬へ引き返す、政宗は宮森城へ帰る 閏5/24佐竹義重が出陣の情報(相馬が出馬を要請?) 義重は蘆名・白川・二階堂などの諸氏を引き連れ須賀川から本宮方面は北進(岩城常隆は派兵のみ) 閏5月下旬に最上氏と和睦交渉開始 6/12政宗は宮森城を出て本宮へ入る、同日本宮南方の阿久土で小競り合い その後連合軍は郡山城を標的として南進 郡山城北方の山王山に成実を配置、持ちこたえる(郡山合戦) 岩城常隆が石川昭光を誘って中人となり伊達氏と連合軍が7/10和睦成立 7/17夜に相撲、自身も大條実頼相手に敗北 窮地を脱した政宗は7/21宮森城へ帰る 7/27に大崎氏攻略失敗で小競り合いが続いていた最上氏との対立も、母義姫の奔走で和睦成る 7月後半に大崎氏との和睦も成立 (8月最上氏は庄内で本庄氏に大敗、求心力を低下、大崎氏は伊達氏に従属することを選ぶ) 8/5三春城入城、9/16まで滞在(田村氏を支配下に:田村仕置)、9/18頃に米沢へ帰還 岩城常隆と、大越顕光らの処遇を巡り対立 だが政宗は岩城氏との開戦には慎重
- 1589年|天正17年|23歳
1月落馬し足を骨折 岩城氏と関係悪化、岩城氏と相馬氏が連携をはじめる 岩城常隆が小野・大越方面へ出陣、政宗も4/22出陣、4/23大森に入る 5/1相馬領の飯樋に桜田資親が攻め入り落とす 5/3大森城を出陣、本宮城へ、5/5高玉城を政宗が攻め落とし、5/7大森に戻る 5/16相馬氏と岩城氏が連合して常葉・船引方面に攻め込む、牽制するため5/18金山城に入る 5/19に駒ヶ嶺城、5/21に新地城を落とす 5/23人生で初めて海を見て舟で沖に出る、5/25金山城、5/26大森城へ戻る 6/1猪苗代盛国が蘆名氏と事切したという情報が入る、6/2本宮へ移る 6/4に猪苗代へ、6/5蘆名義広と合戦(摺上原合戦)し大勝、6/11黒川城を落城(蘆名氏滅亡):豊臣秀吉の惣無事令を違反、秀吉激怒 家族・家臣らと米沢から黒川城へ移る 7/7黒川に唐人が来て花火、7/8に政宗自身も花火使用 南奥に留まっていた佐竹氏も7月上旬に常陸へ帰陣、7月末に白川義親が従属 須賀川の二階堂氏(差配は大乗院)が敵対の動き、10/20黒川城出発、10/21須賀川に着陣、10/25攻撃開始、10/26須賀川城落城、二階堂氏滅亡、これを受けて石川昭光も従属:「仙道一国平均」 12月に岩城氏と和睦
- 1590年|天正18年|24歳
1月相馬氏とも和睦 1/16に寺山まで佐竹氏が出陣、白川氏救援のため3/2白川口へ出馬予定であったが2/26に中止(秀吉の小田原合戦のため) 4/5政宗毒殺未遂事件、4/7弟小次郎手討ち事件(首謀者は実母の保春院とされるが、政宗・保春院による陰謀説も) 4/15黒川を出発、北条領国を通ることが不可能であり一度引き返す、4/21には北条氏と事切 5/9再度黒川を出発、片倉景綱をはじめとしてわずか百騎ほどの供を連れただけで、上杉領国を通ることにし、越後国津川を経て5/16弥彦着 その後信濃国を経て、5/27に甲斐国甲府着、甲府で浅野長吉を待つ しかし戻らないため甲府を出発、6/5に小田原に着く 秀吉との対面は許されず、箱根の底倉という山中に身柄を移される 6/7に長吉をはじめとした秀吉使者が政宗のもとへ、小田原参陣遅参と蘆名氏滅亡について詰問 会津召し上げを受け入れ、6/9に家康に伴われて秀吉と対面(笠掛山の石垣山一夜城)、秀吉に臣従 6/10にも秀吉と対面し茶の湯 帰国を命じられ、6/14小田原出発、相模国藤沢、下野国鹿沼を経て、6/25黒川城へ 7/3か7/4に黒川城を明け渡し、会津近辺のどこかで残務処理(会津から米沢へ) 7/5に北条氏降伏、北条氏滅亡 二階堂氏旧臣の矢田野氏が大里城に籠城し抵抗、7/7に全軍で大里城を攻める命令を下す 7/15米沢にいるのが確認できる、会津へ来る秀吉を迎えるため7/23米沢出発、7/28宇都宮着、7/晦日秀吉を迎える 宇都宮には相馬義胤、最上義光、徳川家康も来ており宇都宮仕置 秀吉は8/4に宇都宮を出発、8/9会津着、会津仕置、会津は蒲生氏郷へ 白川氏・田村氏は改易、後に伊達の家臣へ、石川氏も同様に後に改易、伊達家臣へ 8/12頃秀吉は会津を発ち9/1京都へ帰る 政宗も一度米沢へ戻り、改易となった大崎・葛西領の接収のため中奥まで出陣 10/16大崎・葛西の新領主木村吉清への不満が収まらず、大崎・葛西氏旧臣らが中心の一揆が勃発、木村吉清は佐沼城に籠城 10/23に出陣を決定、10/26米沢出発、11/5宮城着陣、その後黒川まで進む 大崎・葛西一揆を裏で糸を引いているとされ、蒲生氏郷は不信感、11/20には名生城に籠城を始め、秀吉に11/24付で「政宗別心」の文書を送るが、この日、政宗は佐沼城に籠城する木村吉清父子を救出 11/26付で「政宗逆心別儀なし」と氏郷は秀吉に報告 政宗は大崎・葛西一揆の現場を離れ、飯坂城で越年
- 1591年|天正19年|25歳
政宗への疑心をぬぐい切れない氏郷は伊達成実を人質として預かることでようやく1/1名生城を出る 政宗は1/9に米沢帰還 大崎・葛西方面へ再び出陣する準備をしていたが1/19秀吉からの召喚状、1/晦日に米沢を出発 秀吉は浅野長吉と徳川家康に政宗上洛の責任者となるよう指示 閏1/3家康が江戸を出発、閏1/10秀吉も鷹狩りのため清洲へ下向していた 閏1/15小田原で数日過ごし、小田原城を見学 閏1/27清洲到着、秀吉と対面(別心とは思っていないと言われる) 京都までの手配が中納言秀次の差配となり、2/4京都へ、2/6秀吉と対面、所領配分問題 京都滞在中、秀吉と共に宇治や大坂城の山里曲輪などで茶の湯 2/4千利休とも会う(直後に利休は蟄居を命じられて2/28切腹) 聚楽第の近くに屋敷をもらい、羽柴苗字を賜り、従五位下侍従兼越前守となる 3月に九戸政実が南部信直に対して反逆(九戸一揆) 4/20秀吉は諸大名に出陣を命じ、政宗も大崎・葛西一揆鎮圧のため4月下旬に下向を命じられる 5/20頃に米沢に着く、5/27陣触、6/14出馬 6/24大崎氏旧臣笠原民部の籠る宮崎城を攻める 激戦となり青木因幡、浜田景隆など多くの家臣が討ち死に 6/25笠原の降伏を受け入れたが城で不慮の失火、これをきっかけに攻め入り籠城していた者を撫で斬り 続いて一栗一族らが籠城する佐沼城を攻撃、7/3に落城 7/4に登米へ、降伏してきた一揆勢を深谷へ移す、中旬に旧葛西領の東山まで進み平定 秀次が二本松に来るという情報、体調を崩していたが、急遽二本松へ向かう 8/7頃には二本松到着、秀次・家康・長吉・氏郷・政宗で郡分け(旧来の土地(田村・塩松・信夫・小野・小手・刈田・長井・伊達)を召し上げられ大崎・葛西へ) 政宗が新領に入部する以前に下準備を家康(岩手沢城・佐沼城普請)・石田三成(気仙城・大原城普請)・大谷吉継(岩谷堂城普請)らがしている 8月中旬までは秀次と同道し高清水城まで行ったよう、その後米沢に帰る 8月初旬から体調を崩しており、9/10頃に回復 9/23岩手沢城への移転、岩手沢を岩出山と改名(奥州再仕置) 村田城で長男兵五郎誕生 岩出山で越年
- 1592年|文禄元年|26歳
朝鮮出兵のため1/5岩出山出発、上洛の途に就く、2/13京都の屋敷に着く、1か月程度滞在 3/17に前田利家・徳川家康・上杉景勝・佐竹義宣らが京都を出陣、上杉氏・佐竹氏とともに家康に属して出陣、4/19博多に到着、4月下旬に名護屋城へ着陣、5/5秀吉と対面 名護屋で越年
- 1593年|文禄2年|27歳
3/22名護屋から出船、壱峻島北端の風本に着船 風の問題が続き、対馬を経て釜山に着船したのは4/13 この頃には日本軍の小西行長・加藤清正と明軍の沈惟敬が合意、4/18に日本軍が漢城を出て戦線を釜山まで後退 4/18浅野長吉・幸長親子と共に蔚山へ、4/21蔚山着、蔚山を落として4/23に日本軍の籠る梁山へ 5-6月金海面で浅野親子が危機に陥った時、政宗が救援して敵を打ち破る 6/28晋州城を攻め落とす(宇喜多秀家・加藤清正・黒田孝高・黒田長政・細川忠興・毛利秀元・小早川隆景・吉川広家・島津義弘らと) 金海竹島倭城を鍋島直茂・勝茂父子に属して普請 講和交渉に一定の目途がつき、9/12釜山出港、9/18名護屋着 閏9/11備後国井原到着、閏9/17・18頃に京都着、閏9/23秀吉の伏見城での茶会に前田利長と共に出席 閏9/24浅野長吉に甲斐国が与えられ、政宗を始め南部信直・宇都宮国綱・那須資晴・成田氏長らが長吉に属することとなる 閏9/25秀吉と対面、伏見に屋敷を賜ることが決定 聚楽屋敷で越年
- 1594年|文禄3年|28歳
長男兵五郎が秀頼の被官となるべく上洛して2/4聚楽屋敷に到着 2/27-5日間の秀吉の吉野の大茶会に参加 6/16正室愛姫が五郎八姫を生む 10月頃から金山一揆(東山に所在する金山で起きた一揆:千厩に集まって一揆)、金山肝煎の白石十郎左衛門が岩出山城の留守居衆に急を告げて伊達勢が鎮圧 11/4母義姫が岩出山から最上家へ帰る
- 1595年|文禄4年|29歳
2/7蒲生氏郷が死去、嫡男鶴千代が13歳であり懇ろにするように秀吉から命じられる(他に上杉景勝・佐竹義宣・最上義光にも) 新城又三郎が伏見で金山一揆は政宗の陰謀と訴える 2/21頃に浅野長吉が裁定、疑いが晴れる 3/28秀吉が家康の屋敷を訪れ供応を受けるのに出席(他は前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・上杉景勝・小早川秀秋・最上義光ら) 国元への帰国が許され6月中旬頃に浅野長吉と京都を発ち、7/15岩出山城へ帰国 秀次事件で秀次に謀反の疑い、高野山に追放され7/15切腹、妻妾や子供らも8/2処刑 秀次との関係が良好であった政宗にも疑いの目、至急上洛の途に就く 白川で長吉(息子浅野幸長が秀次の弁護をしたため能登に配流)と合流 直接伏見は危険であり大坂の施薬院全宗宅へ8月上旬に着く 隠居、兵五郎に家督を継がせて遠流が決定するが、家康の意見などもあり処分撤回 8/24伏見に家老達の妻子も呼び寄せるよう命じ、伏見の一画を伊達町と命名せよと指令 家臣団が豊臣家に尽くすよう連署を命令、この後伊達成実(1598説も)と茂庭綱元が出奔 9/9伏見城で秀吉と謁見 秀次事件のため聚楽亭が破壊、9/19に伏見に入る(屋敷は桃山町正宗と言われる) 10/1家康伏見屋敷で「伊勢物語」講釈、10/28秀吉が上杉景勝邸を訪れた際に同席
- 1596年|慶長元年|30歳
2月秀吉に謁見、明の使いが来るため武者揃えの準備を聞き手配開始→中止となる 3/27伏見城支城の向島城の普請場にいた政宗を船中の秀吉が見つけて招き寄せる 3/28も普請場に来た秀吉に伏見城に連れていかれ茶をたてられる 4月に秀吉は6歳の兵五郎に秀宗と名乗らせ、従五位下侍従に叙任し引き立てた 4/27秀吉に供奉して長宗我部元親屋敷へ 閏7/13深夜に伏見を中心に大地震(慶長伏見地震) 伏見城は倒壊、指月に築かれていたが、小幡山に移すこととなる 閏7/22秀吉は浅野幸長を赦免、先だって長吉も赦免、8/14付で政宗は長吉に対して絶交状、この後は石田三成に近づく 9/29明の使者が持参した国書の内容に秀吉激怒、即座に再出兵を決定(慶長の役) 政宗は伏見の普請に従事、10月上旬に秀吉が政宗を労う 10/26政宗の伏見屋敷に秀吉御成、前田利家らが相伴?、このとき従四位下右近衛権少将へ
- 1598年|慶長3年|32歳
5月頃から秀吉が死の床に伏す、5/15に五大老に遺言状、8/18秀吉死去、形見として脇差の鎬藤四郎を賜る 時期不明だが大坂にも屋敷を与えられる
- 1599年|慶長4年|33歳
1/20長女五郎八姫と徳川家康六男松平忠輝の縁約 秀吉の掟に背くため譴責を受けるが堺の町人今井宗薫が取り持ったため知らないと弁明、2/5家康と前田利家ら誓書を交換し事態は収束 2/9石田三成の茶会出席 閏3/3前田利家死去、閏3/4福島正則・加藤清正らが三成襲撃を企てるが家康の仲介で三成が奉行職を辞して佐和山城へ蟄居することで収まる→明確に家康派となっていく 12/8大坂屋敷で愛姫が嫡男虎菊丸出産
- 1600年|慶長5年|34歳
3月上杉景勝に不審な動き(新城の築城)があることを堀直政が家康に報じる 上洛して弁明を要求したが上洛せず、家康は会津攻撃を決定 6/14大坂を出発、帰国の途に就く、6/16家康は大坂を出発 東山道を通って上野国高崎から下野国・常陸国を経由して陸奥国に入り、岩城・相馬領を通って帰国(上杉領を避ける、相馬領の華光院に宿泊) 7/12北目城に着く(白石城近くの小原と渡瀬、米沢と白石を結ぶ七ヶ宿街道沿いの下関・滑津・湯原、伊達郡懸田の村人は伊達に味方) 家康・秀忠と連携して7/21北目城を出陣、7/24白石城を攻撃、あわせて駒ヶ嶺城から桜田元親が出撃、桜田旧領の河股城を攻め手に入れる 白石城には大崎・葛西氏の旧臣や畠山義継旧臣らが籠城(大崎三次・葛西長三郎・鹿子田右衛門ら)、7/25に落城(大崎三次は討死)、出奔していた伊達成実も帰参 白石城を石川昭光に任せ8/14に北目城に戻る(家康の、宇都宮の秀忠と佐竹氏と連携するようにという命令に従う)(石田挙兵を聞いた家康は8/5江戸に戻る) 8/22付で江戸の家康から「百万石の御墨付」として著名な文書が送られる 現在上杉領の刈田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井を家老衆に与える内容(自力次第)(9/1家康は西上) 9/8直江兼続は最上に向けて出兵、9/13畑谷城を落とし9/15長谷堂城を包囲(兼続は菅沢山に陣)、9/16最上義光に返書、9/17伊達政景が出陣、9/24政景は菅沢山から須川を挟んで2kmまで迫る、9/25最上義光・義康父子が山形城を出て政景と合流、10/1兼続が撤兵、追撃戦で激戦 9月中旬に和賀忠親に南部氏に一揆を起こさせ、岩崎城に籠城、失敗(岩崎一揆) (9/15関ケ原合戦で東軍大勝利、9/27家康大坂城入城、10/1石田三成処刑) 10月新しい居城築城の許可取る、10/6福島表へ攻撃、福島城を落城寸前まで追い込んだが落とせず 10月中旬から家康と上杉氏の間で和睦交渉開始、12/24千代(仙台)で縄張始、北目城で越年
- 1601年|慶長6年|35歳
上杉氏に対して出陣の準備をしながら待つ 1/11後藤信康、川島景泰を総奉行として仙台城普請開始 4/14仙台へ移る 7/2景勝が上洛の途に就く 関ケ原合戦後の論功行賞では秀吉から賜った近江五千石と上杉から勝ち取った刈田郡の領有を認められただけ 7/7南部領の狐崎城で葛西氏旧臣が釜石一揆を起こしたが伊達勢が鎮圧 9/10に岩出山城を京都へ向かって出発、9/18江戸着、秀忠に謁見 東海道を通って上洛、9/晦日に伏見、10/1家康に謁見、10/5にも家康と対面、茶を立てられる 家康政権では本多正信・正純へ接近 伏見で越年
- 1602年|慶長7年|36歳
年頭の祝儀として大坂城の秀頼に謁見、家康の不興を買う 10月に江戸に向けて伏見を出発、江戸へ人質となる秀宗と同道か?
- 1603年|慶長8年|37歳
1/2江戸城で秀忠が催した正月行事である謡初に出席 2/12家康が征夷大将軍となる 政宗は江戸にいて、8月に鎌倉見物、その後帰国、仙台城に入る、以後仙台と江戸を行き来
- 1604年|慶長9年|38歳
10月江戸着 12月に松島五大堂の再建が成就
- 1605年|慶長10年|39歳
2/16秀忠上洛の先陣として江戸を出発(秀忠は2/24出発)、3/21伏見に入る 4/16家康が征夷大将軍を辞し秀忠へ 5/29出発、6/14江戸へ、秀忠の許しを得て7月中旬に仙台に帰着(五郎八姫を同道、五郎八姫は11月には江戸に戻る)
- 1606年|慶長11年|40歳
12/24五郎八姫と家康六男松平忠輝が婚姻
- 1607年|慶長12年|41歳
1月早々、岩出山城の留守居として絶大な権限を持つようになっていた屋代景頼を追放 2/8家康が政宗の江戸屋敷を訪れ囲碁に興じる、このときに家康五女市姫と虎菊丸の縁約が結ばれたか? 3/14富塚宗綱を検地の総奉行に任ずる 6月奥州一宮の鹽竈神社の修造、8月大崎八幡宮(成島八幡宮も共に祀り龍寶寺が別当寺となる)・10月陸奥国分寺再興
- 1608年|慶長13年|42歳
1月秀忠から松平名字を賜り、陸奥守に任じられる 9月家中の知行割を命じ、鈴木元信と奥山兼清を総奉行に任じ12月に完了
- 1609年|慶長14年|43歳
3月松島の瑞巌寺完成、7月と8月に大規模な鉄砲隊の演習
- 1610年|慶長15年|44歳
5月駿府城の家康のもとへ出仕 10月秀忠が政宗屋敷に御成、浅野長政(長吉)が相伴
- 1611年|慶長16年|45歳
3月江戸城西の丸の普請が始まり、川島景泰らに普請を任せ、自身も連日持ち場へ、5月に国元へ下向、7月に普請終了、10/28慶長奥州地震津波発生、仙台で越年
- 1612年|慶長17年|46歳
4月秀宗生母死去 秋頃から病気 12/10仙台を出発、12/21江戸着
- 1613年|慶長18年|47歳
9/15イスパニア国王フェリペ三世とローマ教皇のもとへ支倉常長を使者として派遣、常長はサン・ファン・バウティスタ号に乗船して日本を出発(慶長遣欧使節) 政宗がフェリペ三世と協力関係を築こうという内容 (1615/1/2にフェリペ三世に謁見、いい返事は得られず、1620/8に帰国) 12月に幕府から松平忠輝の越後国高田城普請を命じられる 仙台で越年
- 1614年|慶長19年|48歳
3/16仙台を出発、江戸に寄り4/8に越後府中に着く 高田城普請場を頻繁に訪れる、7/5完成、仙台へ帰る(上越から下越に向かって進み、旧領の小国から米沢盆地を通過して仙台へ) 7/26に家康が方広寺梵鐘の落慶法要の内容に問題があるとし、8月に中止を命じ、10/1家康は諸大名に出陣令、10/10仙台出発(白石城に立ち寄り重い病の片倉景綱を見舞い、重綱の同行を認める)、10/16江戸着 10/17江戸で秀忠に謁見、10/20江戸を出発(秀宗と)、11/5大津、11/10伏見着、伏見の秀忠に謁見、その後京都二条城で家康に謁見、11/11再度二条城で家康に謁見、宇治へ進軍、11/16枚方、11/18八尾に陣、11/19から戦闘開始、伊達軍に戦闘はなし、12/20講和成立、12/21撤兵、12/23から堀の埋め立て開始、政宗も従事、仙波の陣所で年越し、連日普請場へ、12/28秀宗に伊予国宇和島十万石が与えられる
- 1615年|元和元年|49歳
1/23まで埋め立て工事、1/24に京都へ入り、公家や諸大名と交際、2/28宇和島に旅立つ秀宗のために茂庭綱元らを同道、3/6京都出発、3/17駿府で家康に謁見、3/21江戸着 徳川・豊臣間の交渉決裂、4/9江戸を出陣し大坂へ向かう 5/5奈良におり、家康から奈良口の先手を命じられ、松平忠輝に付けられた 5/6道明寺の戦いで豊臣勢と衝突、伊達勢は後藤基次を討ち取り、真田信繁とも交戦 5/7天王寺・岡山の戦いにも従軍、大坂城炎上、5/8山里曲輪に逃れた秀頼・淀殿自刃 5/9大坂出発、京都の屋敷に入る 閏6/19正四位下参議、7/23京都出発、江戸に滞在、9/4白石城で片倉景綱と永久の別れ(10/14死去)、9/5仙台到着 仙台で越年
- 1616年|元和2年|50歳
1/22駿府の家康が病に倒れる、この頃江戸では政宗謀反の噂 2/10に弁明のため仙台を出発、武蔵国久喜まで行き数日様子見後2/22駿府へ 駿府で家康と対面、家康は政宗への疑念を解く、忠輝が政宗を讒言したという事実を知る 4/4まで駿府に滞在、家康に謁見、家康は布団の上まで呼び寄せて後事を託す 4/9江戸屋敷に着く、4/17家康死去、5/4江戸を発ち5/11仙台へ着く 7/6秀忠に松平忠輝は改易される(五郎八姫は仙台城へ、忠輝は伊勢へ配流)
- 1617年|元和3年|51歳
5/10頃に仙台を出発 6月に秀忠に従って上洛、6/7小田原着
- 1620年|元和6年|54歳
2/11幕府から江戸城普請を命じられる、現場を望んだが暇を賜り帰国、11月中旬に完了 8月遣欧使節が仙台着 10月に伊予国宇和島藩主秀宗を勘当
- 1622年|元和8年|56歳
8/21最上氏改易、母保春院を引き取る 10/16江戸を出発、10/24仙台城に着く、28年振りの母との再会?
- 1623年|元和9年|57歳
4/17仙台を出発、江戸へ 7/16に母没す(政宗は家光の将軍宣下のため上洛しており京都で訃報を知る) 7/27家光将軍宣下
- 1625年|寛永2年|59歳
4/20江戸着、5/23忠宗が仙台へ初入国
- 1626年|寛永3年|60歳
8/19従三位権中納言に叙任
- 1627年|寛永4年|61歳
2/23若林城の建築許可、3月から普請
- 1628年|寛永5年|62歳
11/16若林城に入る、仙台城には忠宗が住むようになる
- 1631年|寛永8年|65歳
6月末から秀忠の具合が悪くなる 江戸へ向かうべく若林城を出発、7/29白石に着いたが見舞いは不要と通達あり8/5若林城へ帰る 8/21若林城を出発、8/27下野国喜連川、帰るようにと通達あり帰国 11/12江戸参勤のため若林城を出発、11/22江戸着 江戸で越年
- 1632年|寛永9年|66歳
年頭参賀は中止となり、1/24秀忠死去
- 1634年|寛永11年|68歳
6/19家光の上洛先駆けを務めて京都着 二条城での能に参加など 8月近江五千石を加増され、仙台藩六十二万石となる、8/19まで京都に滞在し江戸へ 江戸で越年
- 1635年|寛永12年|69歳
6/29江戸を出発、7/9若林城へ着く 江戸屋敷が火事で焼失の連絡が入る(今までの普請も含めて多額の借金)
- 1636年|寛永13年|70歳
1/8家光が諸大名に江戸城下の赤坂・麹町・市ヶ谷などの堀や橋の普請を命じ、政宗も従事 4/18完成したばかりの母の菩提寺保春院に詣でる ホトトギスの初音を聞くため、北山・青葉山・経ヶ峰・茂ケ崎山などを巡歴 4/19茂庭綱元の屋敷を訪れ、若林城に帰る、その後ホトトギスの初音を聞くため仙台城へ 4/20江戸へ出発、増田でホトトギス初音を聞く 4/25日光東照宮詣で、4/26下野国梅宮宿、4/28江戸着、焼失後に新築された屋敷に入る 5/1江戸城へ登城、家光と対面 5/21家光が隠密で見舞いに来る 5/24死去
日付表記について:日本でグレゴリオ暦が正式に採用された1873/1/1を超えた人物は、グレゴリオ暦での日付を記載しています
参考文献
「奥州の竜」伊達政宗
佐藤貴浩 / 角川新書
伊達政宗の素顔
佐藤憲一 / 吉川弘文館
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